水を飲むことが憩いになっていて仕事は旅のひとつと思う

虫武一俊『羽虫群』書肆侃侃房,2016年

 

下句を前提とした上句の解釈は幾とおりかあるように思う。砂漠を行くキャラバンの隊員が水筒から水を飲むように、デスクで水を飲むときに憩いを感じるのかも知れない。自動販売機に水を買いに行き、水を飲むというなんでもない日常の行為が職場においては特別な時間となることを詠っているのかもしれない。備え付けられたウォータークーラーから水を飲んで、職場以外であまり使うことのないウォータークーラーに対し、水を飲むたびにどこか新鮮さを感じているのかもしれない。はたまた、上句と下句はそこまでは直接的には対応していなくて、絶え間なく変化があり、身の危険を感じることもある「仕事」を旅と喩えて、上句は具体的な場面を描写するというよりも、職場での給水を一般論に近い形で描いているのかもしれない。
歌会のような場でこの歌の解釈を言い合うと、思い浮かべる状況のディティールが微妙に異なっていて、妙に盛り上がりそうだなと思う。

「仕事」という言葉が指すものの振り幅はかなり広いがために、上句は読者自身が持つ仕事のイメージをある程度補助線にして解釈される。そのイメージを「仕事は旅のひとつと思う」と下句が引き受ける。一首は、旅というさらに抽象度の高い言葉に収斂し、上句の多様な解釈はあまり矛盾なく一首の解釈としておさまるように思う。

一首は〈仕事は旅である〉と言い切っているわけではない。主体はあくまでも仕事を「旅のひとつ」だとしている。そう言われれば、そんな気がしてくるし、仕事を旅であると捉えた上で、憩いとなる水を飲む場面を考えると、妥当する場面があるような気がしてくる。そうしていくつもの解釈が生まれ、一首は読者のものになる。

また、この言い切らなさは、一首が〈人生は旅である〉の亜種として箴言化するのをぎりぎりのところで防いでいる。絶妙な言葉のバランスだと思う。

芭蕉や西行をはじめとした詩歌の先人たちは、旅に生き、いくつもの詩を生み出してきた。それは真似できないなあと思うのだけど、労働というものを上手く捉えることで詩を生むことができると、この一首を読んで思ったりもする。

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