肌合はぬ人のよこせし年賀状三等に当りしを手に握りしむ

藤岡 武雄『雲の肖像』(短歌新聞社 1985年)

 

 お年玉付き年賀はがきの抽選会が今年から大々的には行われないことになったという。SNSなどの発達により年賀状離れは明らかに進み、発行枚数も相当数減っていたので、〈お年玉〉への注目度も低下していたのだろうけれど、子どもの頃、それなりにわくわくして当否を確かめた身としては、風物詩がまた一つ減るようで少し寂しい。

 この歌の「年賀状三等」だが、現在は三等が切手シートで、一番下位の当たりということになっているが、歌が作られた当時はそうではなかった。四等はもちろん、五等まで設けられていた時代もあった。だから、「三等」はめったに当たらない等級なのである。

 一枚一枚、当たりかどうかを確認していったのだろう。はがきの下部の数字を見つめて、これも外れこれも外れと軽く落胆しつつ、ようやく、当たった! おおっ、しかも、三等が! と思った次の瞬間、それが、「肌合はぬ人」の物だと気づいた。そのときの何とも言えない気持ち。

 

 明快な歌だと言える。年賀状が「肌合はぬ人のよこせし」であることも、それを知って「手に握りしむ」という動作に至ったこともはっきり書いてある。始めから終わりまで書いてある。だが、描かれている心は単純ではない。その内部で、葛藤は嵐のようだ。

 

 よりによって。なぜあの人の。なぜ。

 

 籤に当たるというのは、言わば、大いなる者からのギフトである。それが、あの人からのはがきによってというところに、どんな意味を見出せば良いのだろう。そして、どう折り合いを付ければ良いのだろう。複雑だ。けれど、往々にして、こういうことはある。日常の中の何とも言えない割り切れなさを、ささやかな短歌形式が詠いとどめる。

 

 さて、〈私〉は、この幸運を受け取るのだろうか。それとも、嫌だという「皮膚」感覚に従い、当たりを拒否するのか。

 

 これが一等だったなら、それは受け取るだろう。切手シートなら、少し惜しいが思い切れる。

 けれど、「三等」なのだ。どうすればいい、どうすれば。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です