紙の上に文字生るるとき放ちたる感情ゆがみてわれを置き去る

水沢遙子『時の扉へ』不識書院, 1982年

 

一首を散文として書き直せば、「文字が紙の上に生まれるとき、私が放った感情は歪んで、その歪んだ感情は私を置き去る」とでもなるだろうか。
一首において、「生るる」の主語は文字、「放ちたる」の主語は主体である「われ」で目的語は「感情」、「置き去る」の主語は「感情」で目的語は「われ」、としてとりあえず読む。語の力点が小さく手渡されてゆく印象がある。
もちろん、「放ちたる」の主語が第三者で、第三者の書いたものを読んでいる可能性もあると思うのだけど、そうすると「紙の上に文字生るるとき」から感じるライブ感というか、今眼前で起きている印象と小さな齟齬がある気がして、とりあえず主体自身が書いたものについて詠んでいると取る。書道作品が眼前で生まれているみたいな解釈のルートも楽しいけど、歌集において前後に配された歌からすると脈絡がなさ過ぎるので、とりあえずおいておく。

主体はなんらかの感情を込めた言葉を書いた。放つという動詞の斡旋からは、どこかカタルシスのようなものを感じる。その感情は歪んで、わたしを置き去りにしてしまう。例えば、感情を起点に一首の短歌を拵えるとき、最終的に完成した一首が起点となった自分の感情からずれている、そんな状況を考えると納得がいく。「ゆがみて」、「置き去る」という語から、主体が込めた感情の強さを感じる。

言葉を書いたのは主体だ。ただ、「生るる」という語からそれがひとりでに生まれたような印象を受ける。「生る」の語に神が生まれるというようなニュアンスが本来的にあり、どこか神聖なものが生まれたような感じがする。

 

うすにびの低き空よりようやくに雪ふりはじむことばも生れよ

 

歌集には他にこんな歌も収録されていて、言葉を紡いでその結果として顕現するものに対する敬虔さがにじむ。

これらの歌が短歌のことを詠んでいるのかはわからない。一首が向いている対象は、詩でも手紙でも仕事の文章でもよいし、書くという行為一般を対象にしているとも取れる。ただ、短歌という定型詩の事を考えると、定型によらなければ生まれなかった言葉が確かに存在していて、その言葉は「生る」という動詞によって表現するのが相応しいような気もしてくる。
冒頭の散文は、意味を手渡す上ではわかりやすいのだけど、〈実感〉のようなものからは離れてしまう。実感は混沌として、それがどうにか定型によって表出される。時に無意識下もからめて。
そんなことを考えると、これは短歌を詠むという行為を詠んだ短歌なのかも知れないなと思う。

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