火の息を鎮めて膝をわずか曲げ神事のごとしフリースローは

三井 修『アステカの王』(砂子屋書房 1998年)

 

 バスケットボールのフリースローの場面。それまでの激しい攻防が嘘のような静けさの中、ひとつのボールが放られる。そこに神聖なものが感じられている。

 言葉の選びが、過不足なく的確である。この場合の「的確」とは、神事=フリースローという、「ごとし」の持つ妥当性・説得力の証明に向け、一つずつの言葉が選ばれているということだ。(もちろん、無意識のうちの選びだろうけれど。)

 「神事」ならば。

 民俗学的な見地を加えながら、この歌を読んでみたい。

 まず、「火の息」。これは、コート中を精一杯動き回った後の苦しい呼吸の喩えだが、「火」が神聖なものを呼び込んでいる。ギリシア神話のプロメテウスの火、左義長や火祭り、忌火、送り火。本源的なところに触れる言葉を冒頭に持ってきたことで、歌に気高いものが生まれた。

 そして「息」は魂であり、生々しいものであり、生臭いものである。だから、神に対うときには鎮めなければならない。たとえば、仙台の大崎八幡宮のどんと祭では、数千人が口に紙をくわえ、神に息を吹きかけないようにしながら参拝する。神輿渡御の際に、紙をくわえ、神霊にかからないようにする例もある。

 そのようにして息を鎮めるわけだが、この「鎮」という漢字は、強い力で抑えるという意味を持つ。荒い息に対して相当のコントロールを行いながら、ボールを放るのに最もふさわしい状態へと肉体と精神を調整していくのだ。それは、自分の中の荒ぶるものを抑え、整えてゆくことである。「鎮火祭」――ひしずめ、ほしずめのまつりは今も各地の神社などで行われているかみごとだが、この時、選手の内なる世界で、急速に、それがなされていると言えよう。

 次に、膝を曲げることは、神に対する敬意の体現となる。「膝を折る」、「膝を屈する」という慣用句が示すとおり、この動作は、神に従う己であることを証明する。ここでは、跪礼ほどの重さはないが、貴婦人たちが少し膝を曲げるお辞儀「カーテシー」なども連想させようか。

 いや、それよりも、祭祀における型としての参拝儀礼を思わせる。思えば、フリースローのフォームは、長い間かかって磨き上げられてきた「型」である。もちろん、籠にボールが入れば、どんな投げ方をしてもいいのだろうが、最も確実で最もふさわしい、(そして、おそらく最も美しい)動きが、競技者たちの共同体の中で見出されてきた。そして、伝えられてきた。定型化された行為は、もはや儀礼である。

 そして、なにより、このコートが神の場である。しつらえられた斎庭である。そもそも、古代オリンピックは神ゼウスに捧げられた競技会であり、相撲は神の力比べから始まった。つまり、競技する場は聖なる場。そこを観客が取り囲む。

 観客は神に従う者でありながら、神と選手との間でなされる行為の証人でもある。選手は、まさに「選ばれた人」であり、神官としての、時には、生け贄としての役割を持ち始める。固唾を飲む雰囲気、過度の緊張感。あまたの眼差しのもと、球が放られる。

 さて、結果は。球は入るだろうか。

 鳥居に石を投げ上げたり、かわらけや運玉を的に投げたりと、物を放り、その成否によって未来を占う例はたいへん多い。フリースロー自体が占事の性質を持っている。

 

 「神事のごとし」   はい、本当に。一つ一つの言葉を取り巻く根源的で深い世界が、文字以上の何かを連れてきている。

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