こころにもほとりがあつてたちまよふ思ひのやうに鶴がはばたく

尾崎まゆみ『ゴダールの悪夢』書肆侃侃房,2022年

 

「ほとり」、「たちまよふ」の措辞によって水辺の光景が想起される。「たちまよふ」を連体形でとると「思ひのやうに」へとつながるので、具象の状態を描いた動詞としては使われないのだけれど、その含意から想像している水辺の景に霧や靄をかける。その湖畔のような情景には羽ばたく鶴が配されていて、一首はかなりクリアに像が結ばれるように思う。美しい景だ。
一首においてはこの景が心の比喩として提示される。
心にはほとりがあるという前提に不思議な納得感がある。感情の動きはすべてがすべて自分の管理下には置かれているわけではないような気がするし、自分の認識や思考の外側には広大な無意識の領域が広がっているような気がする。そこには明確な線引きは存在しないので、中間地帯のような場所が存在するだろう。
こころのほとりに留まっている思いは、様々な様態をもって存在しているだろう。それは心のほとりに留まり続けることもあれば、無意識の領域に消えていくことも、心に鎮座することもあるはずだ。
「(思いが)たちまよふ」と「鶴がはばたく」を対応させて一首を読むと、結句でぐっと像が結ばれる。比喩として顕現した鶴は、「はばたく」という動作が与えられ、どこか力強くて比喩としては非対称な気がするのだけど、茫洋とした「思ひ」に形が与えられたような気がして妙に納得感がある。
「鶴ははばたく」が飛び立つ前の動作だとしたら、「思ひ」はこれから昇華されるのだろうか。鶴という具象によって、その「思ひ」はどこか気高く感じられる。

 

翳りまでゴッホは描くそのままにしをれてしまふ向日葵の黄
手弱女たをやめとしろき光の波のゆれ緑の日傘モネのよろこび

 

掲出歌の収められた連作「緑の日傘」より。
「緑の日傘」は「ひららくは空の気配とおもひつつ開館前の列へとならぶ」を冒頭に配す美術館で絵画を鑑賞する一連だ。掲出歌は同連作の掉尾に配されている。
冒頭の一首は、近しい構図の絵が飾られていて主体が心との類似を感じたのかも知れないし、展示をみるなかで不意に浮かんだ心象なのかも知れない。
いずれにせよ、忘れがたい景が一首によって提示されている。

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