たて笛に遠すぎる穴があつたでせう さういふ感じに何かがとほい

木下 こう『体温と雨』(砂子屋書房 2014年)

 

 まず惹きつけられるのは、その語り口である。「でせう」は話し手が確認していないことを推量するときの表現だが、そばにいる誰かに語りかけている場面なのか、昔の自分に問うているのか、あるいは読み手に投げかけているのか。

 「あつたでせう」と言われると、確かにそうだったなあと記憶がひらかれてくる。手が小さい、小学校低学年、中学年の頃、「ド」の音を出すときには、全部の穴を塞がなくてはいけなくて、しかも、一番下の穴は、小指で押さえなければならなかった。さらに、その穴には、隣にもれなく小さい穴も付いていて、その二つを小さな指先で同時に塞がなくてはいけない。

 む、難しい……。くらくらした覚えがある。

 なにせ、リコーダーは、変な音を出すと、結構目立つ。だから、合奏で、あるいは、独奏ならなおさら、ちゃんと押さえておかないと、ぴー、とか、すかー、とかいう音になってしまう。息を吹き込むときにいくらかの心理的な負荷がかかる、そういう楽器ではあるだろう。「遠すぎる」は、手が小さくて指が届かない様子を言っているけれど、「すぎる」という強調の表現には、届かせなければいけないという微かなプレッシャーが滲んでいる。

 そして、「遠すぎる」は明らかに一人称の感慨なのだが、「あつたでせう」によって、読み手の〈一人称〉へと柔らかく接続される。読み手の記憶が「遠すぎる」の感慨も含めて一瞬のうちに引き出されてきて、それをベースとして、下句へと進んでいく仕組みなのだ。この時、「遠すぎる」は身体感覚さえ伴う。

 とは言え、下句は全くもって朦朧としている。「さういふ」、「感じ」、「何か」というあまりにもおぼろげなものばかりの下句であり、唯一わかるのは「とほい」ということだ。けれど、上句がある。上句の記憶の感覚が残っている状態で下句を読むからこそ、この下句は、むしろ、おぼろげな何かの感触をなるべく誠実に掴もうとする有効な表現になってくる。

 

 と、ここまで書いてきて。

 「遠」い、「とほい」歌だなあということを改めて思う。

 分析するほどにすり抜けるものもあって。けれど、言葉でもってかろうじて繋がれるための手掛かりもあって。

 

 微かに聞こえる気がする澄んだ音色、懐かしい旋律。教室の机。指。窓。光。過去。未来。忘れていた何か。思い出せない何か。旧仮名。

 遠い。とほい。

 そんな乳白色のおぼろさのなかに一首が浮かんでいる。

 

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