廣野翔一『weathercocks』短歌研究社,2022年
誰かが花束を贈呈されている、あるいはイベントかなにかがあって花束がたくさん届いている。その会が終わって、ひとりでは持って帰れない量の花束を幾人かで分けて持ち帰る。そんな場面を想像する。
主体と花束の関係はどうなのだろう。花束を主体が貰って他者と分け合ったのか、宛先は他者のものである花束をお裾分けしてもらったのか。取ろうと思えばどちらとも取れるような気がする。前後に配された歌が「生活に仕事がやがて混ざりゆく鉄芯入りの靴で外へと」と、「成海璃子がずっと年下である日々を暮らすしかない 岬遠き街」となっていて、どちらにも主体の諦念のようなものがどこかちいさく滲んでいて、後者で取った方がどことなくしっくりくる気がする。五・八・五、あるいは八・十の上句はすこしもたもたしている印象があって、花束を分け合う時の空気感と響き合う。
「花束を分けて花束を持ち帰る」という表現がおもしろい。持ち帰っているのは、誰かの花束なのかもしれないし、装花の一部や花束の一部かもしれない。それでも、主体が持っているそれも、やはり花束なのだ。それはフルサイズの花束が役割を果たしていた時の華やかな空気をまとっている。だからこそ、「夜道に掲げながら歩いた」という下句にスムーズにつながってゆく。もし、花束が第三者に宛てられたものであるならば、掲げながら歩くという表現からは、その第三者へ花束が贈呈されたことへの喜びや、俺もがんばるぞというような奮起を感じる。
関西に戻ってこいと言う人が居た雪が降る夜の酒場に
作業員・廣野翔一、醜聞の特に無ければ赤だし啜る
ピーコート買ってその場で着て帰る聖書に雪の描写少なし
『weathercocks』からはある程度はっきりとした主体像が浮かび上がる。就職で関西を離れ、異郷の地で働き、生活をする。自己言及的な歌も多い。決して器用ではない主体の日々が誠実に詠われている。掲題歌を歌集の中で読むと花束を掲げながら歩く主体が妙に力強く浮かび上がってくるのだ。
その歩みは着実で、力強い。
雪がまた雪を濡らしてゆく道を行くんだ傘を前に傾げて