伊藤 一彦『月語抄』(国文社 1977年)
初めて目にしたときから忘れられない歌で、それは、「~にあらずや」の構文に拠るところが大きい。
鶴は怒っているのではないのか。
歌を読むたびに問いかけられる。どうなのだろう。怒っているとは思う。けれど、本当のところはわからない。そのわからなさが、いつまでも何度でもこの歌を新鮮に受け止めさせる。
鶴が怒っているとして、文脈から読み取れる理由は、動物園に入れられ、自由を奪われているからということである。だが、他の動物だって同様だ。なぜ、「鶴は」と、「は」で取り出され、ここに焦点が絞られているのだろう。
そうしたとき、象やライオン、孔雀やフラミンゴ、それらもいるなかでの、鶴の「怒り」の独自性が思われてくる。
控えめで辛抱強い怒り。一見、怒っているかどうかわからない「静」の怒り。
それでも、怒っているかもしれないと思う根拠は情況証拠の他にもあって、鳴き声や立ち居振る舞いのみならず、赤 鶴の頭頂部や目の周りなどの赤い色に、怒りを思わせるところがある。たとえば、歌舞伎では赤い化粧は怒りを表す。そして正義を表す。赤は怒りの感情を象徴する色なのだ。
とは言え、どこまで行っても、鶴の怒りは確定できない。この歌で見るべきはそこよりも、鶴が怒っているかどうかを考えてしまう、詠み手の気持ちの方なのかもしれない。
大本に、鶴への申し訳なさはあるだろう。人間が他の動物を飼い慣らし、野性を奪おうとすることへの罪の意識。また、明確ではない鶴の怒りの表れ方を見ながら、身近な他者や、ひいては、自分自身の、底ごもる怒りのことを、無意識にも想起しているのかもしれない。鶴を見て「喜び」や「悲しみ」ではなく、「怒り」を思う、そのことを読むべきなのかもしれない。
「怒りているにあらずや?」そう問い続けずにはいられない心を。