春までは送るものがもうないと言ふ父の大根やはらかく煮る

小林真代『ターフ』青磁社,2020年

 

故郷から離れて暮らしていると、親から農作物が送られてくる。実家が畑を持っていると、時々ある場面だと思う。子供が大人になっても、自家栽培の野菜は送りやすく、また、地元の土がつた人参や大根はスーパーで買うものより形は歪んでいて、受け取る者にとっても妙にうれしいものだ。
父は畑の土を触りながら生きている。そこまで大規模な畑ではなさそうな気がする。その畑にどの時期に何を植えるか考えながら生活をしている。大根は一年中スーパーで買えるし、実際に夏に大根を買ったりするのだけど、そんな現代的な機能性とは別の次元で作られた大根が届き、主体はその大根を煮る。
「春までは送るものがもうない」、それはなんでもない言葉なのだけど、父の生活や畑の様子が想像されて妙に心に残る。父が暮らす時間軸においては、畑仕事がひとつの欠かすことができない要素となっていて、「旬」という言葉は、畑を持たない者よりもずっと暮らしに密着しているだろう。
そんな大根を故郷から離れた土地の水で煮る。「やはらかく」の旧仮名表記からは煮えた大根の柔らかさを感じるとともに、父の大根をいつくしむような印象を受ける。「父の大根」と、「父の」のあとに、〈作った〉とか〈育てた〉が省略されていて、大根からより直接的に父が感じられる。
春を待つ心持ちは畑仕事をする者とそうでない者では微妙に異なるような気がする。畑仕事をする者は、耕し、種を蒔き、作物の成長を見守りながら春を迎える。ゆっくりと、そして確実に、季節の変化を感じることができるだろう。

 

人間なら肩のあたりに青首と書かれて父より大根届く
ふるさとをきつと頼りにしてほしい 皮剥けばなほ白き大根

 

歌集には他にも故郷の大根の歌が収めらている。他の野菜の歌もある。故郷から送られてくる野菜によって、父が過ごす時間を感じる。主体と父の時間の流れはいくぶんか異なるのだけど、父から送られてきた大根によって、その違いに触れた主体のかすかな感情の動きが一首からは感じられる。

 

菜の花の辛し和へすこし目にしみて大人とは季節を語るひと

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