松本 典子『いびつな果実』(角川書店 2003年)
「脚注」は、書籍などにおいて本文の下に付ける、ちょっとした説明のこと。自分が自分としてきちんと立てていなくて、まるで誰かの付け足しのような存在になってしまっているという意識が歌のベースにある。
当然だが、「脚注」は、本文があってのもので、単独では脚注になり得ない。つまり、何かに属する自分であるということだ。
たとえば、娘であり、恋人であり、部下であり、母であり……。そんな誰かの属性としての自分に、普段は縛られ続けている。
そうでなくとも、他の人の世話ばかりしている、自分のやりたいことがやれず、サポートばかりを引き受けているというような日々は、「脚注」 そんな寂しい比喩で己を捉えさせてしまうのかもしれない。
それでも、である。誰の「脚注」でもなく、一人で道をゆけることがある。そんな 気持ちになることがある。その時は、その時ぐらいは、雪は自分をめがけて降って欲しい。「あれ」の命令形は切ない願いだ。私を見て。
なぜなら雪は、天から降るもの。だから願う。他の誰でもない、私に向かってきて欲しいと。
さて、この一首、初読と随分、印象が変わった。それには、社会の変化と、読み手であるこちら側の変化が大きく関わっている。以前は「われ」を、ままならない日々を生きる同志のように思った。字余りとしてあふれてしまう心に共感した。しかし、今は、この上句の願いは、自分自身によって、叶えられると知っている。
たとえば、風のあまりない雪の日、自分の視界を真上に向けさえすれば、雪は自分めがけて降ってくる。
向けさえすれば。
そういうことがだんだんわかってきた。
だからこそ、いっそう、この歌の「われ」が愛おしい。「われ」の願いが愛おしい。