佐伯 裕子『ノスタルジア』(北冬舎 2007年)
箪笥の段ごとに、衣服が整理され収められている。祖母の箪笥では一段目が春のもので、五段目が冬物だ。それを、「春が」、「冬」がと、まるで季節そのものがしまわれているかのように表現しているところが歌の見所である。
『ドラえもん』ではのび太の机の引き出しの中がタイムマシンだったが、そのように、引き出しがどこか広い空間に繋がっているという感覚は、昔からあったようだ。
昔話「うぐいすの里」では、山で道に迷ったある男がお屋敷に辿り着き、そこで見てはいけないと言われた箪笥の引き出しを開けると、中で、正月のお祝いをしていたり、田植えをしていたり、お月見をしていたりしたという。いわゆる、民話の「見るなの座敷」型の一つの話である。
この歌でも、「祖母」に対する私というものが、〈見る者〉として存在していて、引き出しを開けるたびに、ああ春だ、ああ冬だという感慨を持つ。幼いときの記憶としての、祖母のいぬ間にこっそり引き出しを覗いた秘密めいた心の弾みや、祖母自らに「ここは春よ」と説明してもらったときの憧れの気持ちなどを、物語のスパイスとして加味して読んでもいい。
春の服は春らしい、淡く明るい色だったろう。そして冬は濃いめの色。厚く嵩があるので、やはり、「ふかぶか」とした引き出しでなくては。洋服でも和服でもいい。その衣の移り変わりの中に祖母は生きていた。描かれていない、二段目、三段目、四段目の季節も含めて、移ろい繰り返す時をきちんと受け止めて。その丁寧さが呼び込んだ不可思議なのだ。
近頃はクローゼットを備える家が多いので、箪笥の購入率が減っているという。もう箪笥そのものがノスタルジア、なのかもしれない。