名を呼ばれ息子が立ちぬその名もていつか死ぬのか弥生のひかり

川野 里子『太陽の壺』(砂子屋書房 2002年)

 

 卒業式の呼名の場面。一人ずつ名前が呼ばれていき、息子の番が来た。名を呼ばれた息子が立つ。その名を、誰のものでもない自分のものとして認識した息子が立つ。その時、祝うべき場面でありながら、「死」というものが真っ先に感じられている。

 このこころの在りように驚きを感じるけれど、考えてみれば、卒業とは、一つの世界からの訣別である。それまでの自分は死に、新しい自分となる。それが、いつか訪れるだろうこの世からの卒業を連想させる。その時も、誰かにその名を呼ばれるのだろうか。

 

 この歌で興味深いのは、「名」に視線が向けられているところである。古来、「名」は生存するために必要なものとして捉えられており、名前がないのは危うい状態だった。生後七日目あたりに、命名され、世間に知らしめられ、そこで、この世の一員となる。こころぼそいこの世を生きるよすがが「名」なのだ。名は自分。最期まで手放すことのない、自らの証である。

 「その名もていつか死ぬのか」という感慨には、生まれたときに名付けた者としての途方もない責任のようなものが込められている。いや、もっと言えば、この世に送り出してしまった責任、だろうか。

 生まれたからには進むしかない。一生ひとよの終わりまで。死を連想する裏側には、その絶対的な事実へのかすかな痛ましさが滲む。

 

 とはいえ、それは先の話である。今はまだまだ生の側。

 「弥生」という文字の中にある「生」の字がまぶしい。

 

 いよいよ生きる。

 弥生である。

 

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