三月のビニール傘にわたくしをころさぬほどの雨降りそそぐ

嵯峨直樹『神の翼』短歌研究社,2008年

 

三月の雨。雪か霙かわからないような冷たい雨ではなくて、もう少しだけあたたかい雨。だけれども春や秋の雨よりも冷たく、夏の夕立のような勢いはない。しんしんとあたりを濡らす、そんな雨を想像する。

「わたくしをころさぬほどの雨」はインパクトのある言い回しだ。逆に言えば私を殺すほどの雨があるのだろうか。真夏の夕立は、凄まじい雨音や雷によって天の殺意を感じるのかも知れない。冬の雨はその冷たさによって私を殺す可能性を感じるのかも知れない。そんなことを考えると、三月の雨は害はあるが殺意を感じるほどではないのかななどと思い、もちろん、殺意は暗喩であろうが、一首が提示する状況に小さく納得する。

一首が提示しているのは、雨の中で主体が傘をさしている状況だろう。雨はひとしく世界を濡らしている。しかし、二句目の助詞「に」と少し大仰な「降りそそぐ」の取り合わせによって、主体が持つビニール傘にのみ雨が降っているような印象が、少しだけ与えられる。ビニール傘をさす主体が世界から切り取られたかのようだ。そのイメージはどことなく孤独だ。
三月の雨がビニール傘に降るのではなくて、三月のビニール傘に雨が降る。ビニール傘は特別なものではなくて、季節を背負うような具象ではない。しかし、ビニール傘にも三月はやって来て、雨が触れる。どことなく、特別ではなくとも生きていかねばならない人間とも重なるような気がしてくる。

日常には私を殺しはしないが私を追い詰めるものが無数に存在するだろう。仕事や勉強、時に近親者も私を追い詰める。それでも、それらは生きる上で必要なものだろう。雨も同様に必要なものだが、時に人間に牙を剥く。

傘だけでは心許ない。それでも傘をさしながら進むしかない、そんなことを思う。

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