天冠のとれし女雛のまぬけ顔したしみありてわれは寄りゆく

桜井千恵子『風語かぜのことば』(柊書房 2008年)

 

 本日は桃の節句。

 平安時代には、貴族の子どもが紙などで作った人形で「ひいな遊び」、いわゆるごっこ遊びをしていた。『源氏物語』でも、幼い紫の上や、明石の姫君が「雛」で遊んでいた。それと、形代として幼児の厄をはらう「ひとがた」の風習などが合わさって、今の雛人形を飾るならわしに繋がっているそうだが、そう、まさに、雛人形は飾るもの。今はもっぱら、人形は鑑賞用で、とても玩具とは言えない。むしろ、手を触れることさえ許されない。幼い子が触ろうとすると叱られる。それだけ高価なものも多いし、何というか、そのたたずまいに気圧されるところがある。

 

 そもそも、雛の顔は、関東風や関西風、享保雛、寛永雛など様々とは言え、一般的には端整で、きりっとしている。気品があるのと冷ややかさとは紙一重で、調度も衣裳も細やかですてきなので見たいし、憧れるけれど、どこか近寄りがたいのだ。

 

 ところが、である。この歌の女雛は、天冠がとれて「まぬけな顔」に見えている。がぜん、したしみが湧いてきた。

 「天冠」は、金色の華やかなかぶり物。帝や、能の天女などが付けるもので、ある時代の女雛には多くかぶせてあるそうだ。それがとれてしまっている。とれてしまえばどうなるか、あるべきものがなくて、何かへんてこ。そして、ただの膨らませて結った髪であるわけで、言わば普通の人っぽくなってしまっている。ならば、ようやく、何か話ができるかもしれないというものだ。

 

 欠けるゆえの豊かさ。

 かつて萩本欽一が、「まぬけってとっても素晴らしいんだよ」と言っていたけれど、なるほど、そうだろう。思わず近寄りたくなったほどだもの。

 

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