春浅き付箋だらけの子の辞書がことばこぼさぬように立ちおり

鶴田伊津『夜のボート』六花書林,2017年

 

我が子の辞書が学習机かなにかに立ててある。付箋がたくさん貼られている辞書。付箋が可視化されているということは、辞書は函に入っていないのだろう。
「春浅き」という提示によって、次の学年に上がる手前の時間を思い浮かべる。一年間(あるいはもう少し長い時間かもしれないけど)、子が勉強に使った辞書。その前提によって、「付箋だらけの」という描写に子の学習時間が感じられる。子の学習時間が付箋によって具現化されているようだ。そして、早春のやわらかい光が学習机に差し込んで辞書を照らしている状況が想起されて、あたたかい。
函に入っていない辞書は柔らかく、ブックエンドやほかの本に挟まれてどうにか立っているのだろう。「ことばこぼさぬように」という言い回し自体は抽象的だが、函に入っていない辞書が立っている情景と響き合う。また、漢字表記が多い上句と違い、下句の「ことばこぼさぬ」という平仮名表記も情景と響き合う。
辞書が言葉をこぼさないように立っているという表現は、辞書の描写としてまず面白い。確かに辞書は言葉に満ちていて、函に入っていない無防備な辞書が立っている状況は、「ことばこぼさぬように」という表現がぴったりだ。
一首においては、それが子の辞書であることでさらなる奥行きが生まれる。言葉をこぼさないように立っているのは、子そのものでもあるだろう。勢いよく成長し、語彙を増やしていく子供は、まさに言葉をこぼさないように生きているように映る。下句の平仮名表記はそれにもぴったりと響き合う。
一首が切り取っているのは一瞬の情景だろう。それは、その瞬間にしか存在しない時間だ。同時に、一首はその前後の時間も含む。子供が辞書を引き、言葉を得ていく時間を含み、「春浅き」今から次の学年に上がる未来も感じさせる。辞書はどんどん使い込まれ、場合によっては使われなくなるだろう。
そんな遥かな一瞬を感じると、自分は全然関係がないのにも関わらず、小さく嬉しくなってしまう。

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