小林 真代『Turf』(青磁社 2020年)
三月というと必ず思い出される歌で、その月が「また来る」ことが殊更に意識される。
人間(の文化)が滅びていない限り、百年後も「三月」という概念はあり続ける。歌としては、そのことをそのままに受け取っても良く、「三月」を「二月」や「十一月」へと替えても成立はする。
しかし、やはり「三月」なのだ。なぜなら、この「三月」は、東日本大震災の起きた月であるから。
歌の初出は震災から四年後の、二〇一五年。「百年後も決して終はらぬ」というのはその時の実感だが、おそらくそこから八年経った今も、そう変わってはいない。
震災当時の様子のフラッシュバック、亡くなった人々を悼むということ。そして、原発事故の影響。原発事故は、自分や周囲の人と地続きの「百年」とともに、放射能が無害化するまでの何万年という時の尺度をもたらした。
終わらない、終われない。その強い認識が「決して」という打消の副詞に表れる。
そして、その重苦しさはまた、ぼってりとした「冬のコート」に表れている。三月であれば暖かい日も増えるので、薄手のスプリングコートを着ても良いはずなのに。けれど、そうはならずに、人に擬えられた「三月」がやってくる、重いものを着たまま。それを迎え入れるしかない。今年も、来年も、百年後も。もうそれは、そういうことなのだ。
三月に閉ぢ込められて来しやうな日々の続きの十年は過ぐ
「3666日目 ―東日本大震災から十年を詠む」(2021年)
この歌では、三月は訪れるものですらない。ずっとそこにある。重苦しさ、閉塞感が極まっている。「三月」が悪いわけではないのだけれど。
十二年前の震災の日。雪交じりだった。寒かった。
電気も灯油もなくて、「三月」はずっと、冬のコートを着ていた。