小川真理子『母音梯形』(2002年)
短歌は、現実でも非現実でもない空間である。
たとえば自分のこいびとが、自分を歌に詠んだとする。けれど歌に詠まれた自分はすでにもう自分ではない。
見たり感じたり考えたりしたことを言葉にするとしばしば嘘っぽくなるのだから、それはあたりまえのことである。そんなことは、れいせいになれば、容易に受け入れることができるはず。
だが、恋の場面となるとそうはいかないようだ。
恋の歌をこいびとが詠んだ。きみがわたしを詠んだ。
その歌を読んだら、なぜかとても違和感がある。わたしはこんな女ではない、と。
この捩れた感情にこそ愛を感じる。
こいびとの詠んだ「わたし」は、わたしのなかにある「われ」を置き去りにして、一人歩きする。
つまり、わたしにとっての「われ」と、こいびとにとっての「われ」の距離をはっきり映し出してしまうのだから残酷なことである。
それは、つながっていたはずの糸が知らぬ間に切れていたような、初めからつながっていなかったと知ったときのような、さびしい断絶。
「超ゆ」から「消す」への変容は、急降下する絶望感があり、痛々しい。