キッチンは逆立ちしてもいいところ君もケチャップ我もケチャップ

大谷ゆかり『ホライズン』ながらみ書房,2017年

上句を読んだ段階では言わんとしていることがわからないのだが、下句で納得する。ケチャップやマヨネーズ、ソースなんかの調味料が残り少なくなった時、使う時に中身が出やすいように逆さまに向けて保管するあの状況。あれだ、と思う。いつ誰に習ったともわからない日常動作ではあるが、こうやってテンション高く言語化されると妙に楽しい。残り少ないケチャップを鼻歌でも歌いながら絞り出している、そんな情景が思い浮かぶ。

一首は与謝野晶子の高名な「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟」を下敷きにしていて、本歌のテンションを引き継いでいる。そのテンションにケチャップの促音が乗っかってリズミカルだ。〈火の色〉と「ケチャップ」も遠くで響き合っていると思う。情熱的な晶子の相聞を受けているので、掲出歌の「きみ」と「我」にも相聞の気配がかすかにただよう。
「キッチンは逆立ちしてもいいところ」という上句は、第一にはケチャップの保管方法を指していると思うのだけど、それ以上にキッチンでの自由さが感じられる。キッチンは自由だ。ごはんを作る上で、食材を大切にさえすれば、どんな調理方法でもよい。そして、ごはんを作ることができるのはありがたいことでもあって、土井善晴が「台所の安心は、心の底にある揺るぎない平和です」(『一汁一菜でよいという提案』)と書いていたのを思い出したりもする。

「キッチンは逆立ちしてもいいところ」の裏側には、〈逆立ちしてはいけないところ〉の存在を感じる。例えば、事務職の職場では、実際にも比喩としても、〈逆立ち〉はできないだろう。だからこそ、逆立ちができるキッチンは主体にとって大切は場所といえるのかも知れない。

晶子の本歌は、留学に送り出した夫鉄幹を追ってフランスに行った折のもの。現在の渡仏より遥かに大変な当時のフランス旅行。そこには晶子の情熱と自由さがある。本歌を受けた掲出歌からは、せめてキッチンでは自由たらんとする、主体の意思をほのかに感じる。

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