土井 紀枝『こんにちは海』(短歌新聞社 1991年)
水族館でイルカのショーを観ている場面。
イルカはトレーナーの合図にあわせて、速く泳いだり、空中に躍り出たり、尾びれを振ったり、鳴いたり、時には人間を背中に置き「イルカに乗った少年」をしたりと、といろいろなアクションを見せる。それらは、なめらかで、躍動感があって、イルカの美しさや賢さを十分に伝えるものだ。ショーは人気があり、小さい子たちも大喜び。
だが、この歌では、そんなイルカの動きに「さびしさ」が感じられている。
イルカの技の一つに、ボールを口で受け、長く伸びた口先でバランスを取りながら保持するというものがある。
練習したのだ。何度も。うまく行ったら餌をもらえるという条件付けによって、習得されたものなのだ。
それは、ショーがなければなされなかった、不自然な動きである。「揺れのさびしさ」という捉えには、そのような動きをさせてしまった人間側の心の揺れが投影されている。
紡錘形のイルカのからだには、頭と首と胴の境目がない。首があるなら、より楽に、ボールを支えられたかもしれないが。
下句「イルカの首は胴につながる」は、あくまでも、上句の「揺れ」が起こる原因の説明としてある。だが、口元のボールの揺れ→首→胴という歌の展開からは、そのさびしさが伝播しながら広がっていくような印象も受ける。
あるいは、そんな全身のさびしさが、ささやかな「揺れ」という形で表れているだけなのか。
つるつるとしたイルカの皮膚。その奥に潜むもの。イルカ自身の心のほどはわからないけれど。