犬は犬を子供は子供を目で追ひぬ夕暮れの道擦れ違ふとき

加藤直美『金の環』 角川文化振興財団,2018年

主体が子とともに犬の散歩をして一緒にすれ違ったのか、はたまたすれ違う様子を眺めていたのか。犬とすれ違うのと、子供と子供がすれ違うのは同時なのか、時間差があったのか。細かな所は読みの分岐あるが、いずれにせよ、犬と子供の世界の把握の仕方が大人である自分とは異なることに気がついたのではないだろうか。

すれ違う時、犬は犬を、子供は子供を見ている。私には子も犬もいないが、言われてみれば確かにそんな気がしてくる。大人である自分が犬を連れた人とすれ違うのであれば、全体を見てしまいそうだ。あるいは、その人や犬に興味を引く要素があれば見て、そうでなければ一切の興味を持たないかもしれない。
犬は犬を、子供は子供を見る、と主体は気がついた。犬に聞くことができないので残念ながら確かめることは難しいが、犬にとって犬の解像度は人間のそれよりも高いような気がする。人間が気がつかないような、身体の大きさや筋肉量を直感的に把握し、それが雄か雌かを把握しているだろう。戦ったら勝てるかとか、序列はどちらが上かとか、素敵な恋人になれるかとかそんなことを考えていてもおかしくはない。人間がすれ違う犬を見る時より、ずっと多くの情報を得ている、ような気がする。
これは、子供の場合も同じかもしれない。歳はどちらが上か、同じ保育園や小学校の奴か否か、流行りのアニメグッズを身につけているかなどなど、私がすれ違う時に得るよりも、ずっと多くの情報を得ていそうだ。
「目で追ひぬ」が効いていて、たまたま興味が惹かれる要素があったがために眺めていたというよりは、自然な動作として相手を観察しているような手触りがある。ラーメン屋巡りが趣味な人がラーメン屋の前を通り過ぎる時、あるいは車いじりが趣味の人が止まっている車を眺める時、こんな時に呼吸をするように仔細な観察をするような感じだ。ただ、大人のそれよりも、本能的で自然な態度で。
そんなことを考えていると、この一首はある一瞬を切り取ったというよりは(一首としてはある特定の場面の描写かも知れないが)、幾度かの経験を経て得られたささやかな真理のような気がしてくる。そのことは、「犬」や「子供」とは少しだけ距離のある思考だろう。漢字が多く配されているのも、どことなく「犬」や「子供」の目線と主体の目線との距離を感じさせる。

一首の中では犬と子供がどことなく近しいものとして描かれているような気がする。子供であったことはあるし、いくらか子供だった頃の記憶も残っているが、子供であった時の感覚はもう戻って来ない。「夕暮れの道」という場面設定は、大人からの視点と響き合っている。

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