ゆるゆると校正すれば「死」も「花」も同じく見えて眠たし午後は

関谷 啓子『硝子工房』(東京四季出版 2004年)

 

 短歌誌の校正の場面だろうか。目を皿のようにして間違いを探すわけではなく、「ゆるゆると」大まかにゲラ刷りか何かを眺めていると、「死」と「花」の文字の違いすらわからなくなってくる。

 

  しかし、確かに、似てなくはない。

 

 上部に長い横棒があるところ。下部の左側には「はらい」があり、右側はカタカナの「ヒ」のような形。いや、ここ、同じである。

 だが、それだけなら、ただの似た字がありました、という話で終わるのだが、この歌の優れているところは、「死」と「花」に共通する何物かを感じさせ、考えさせるところにある。あえて言葉にするなら、ほの暗く、美しきもの、だろうか。文字の奥処で二つの世界が繋がっている。

 芽が出て葉が出て美しさにひらく「花」は、生の彩りと言い換えてもいい。比喩的な意味でも、生の絶頂なのだ。ひるがえって、「死」はその反対側にある。が、その「死」も、すべての行き止まりではない。そのなかには、生への予兆がある。花はしぼみ、枯れるけれど、実をもち、そして、他の生物のための養分となる。また、冬の間、休眠していた種も、春になればいのちを発揮し始める。「死」と「花」は対極にありつつ、円環としてめぐりつづける。

 

 「眠たし午後は」はそういうことのすべてを包み込む。眠りの世界は意識下に繋がり、意識下はいにしえからの生物の記憶に繋がる。

 「死」も「花」も同じこと。悠久の時間のなかではその表層は問題ではなく、永遠に巡り続ける、あるときが「死」であり、あるときが「花」であるだけのこと。同じなのだ。

 そんな最奥の真理を、眠りが引き出す。

 

 校正の方はさっぱりはかどらずに、午後が過ぎてゆく。

 

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