落ち込んでいるあなたから飴玉をもらって自動ドアを出でたり

吉野裕之『博物学者』北冬舎,2010年
※「吉」の表記は土に口

「落ち込んでいるあなた」に飴玉を渡すのではなく、飴玉を貰う。〈落ち込んでいるあなたへと飴玉を渡して自動ドアを出でたり〉みたいな場面の方がなんとなく日常的な気がして、小さく虚を突かれた感じがする。ただ、飴玉を渡した一首だと、〈あなたをなぐさめる主体〉というストーリーがあまりにもはっきりしてしまうし、親切心を自己認識しているいやらしさみたいなのが少しだけ生じる。飴玉を貰う方が物語の空白部分が多くなるし、何よりも逆に現実的だ。

一首の舞台は職場かもしれないし、友人とお茶をした場面かも知れない。愚痴を聞いていたのか、「あなた」がしてしまったなんらかの失敗を知っていて「落ち込んでいる」という認識があったのか、そのあたりはわからない。また、アメをくれたあなたの感情も描かれていないので、想像するしかない。
ただ、「落ち込んでいるあなた」からアメをもらう状況は、考えれば結構ある。「落ち込んでいるあなた」にお菓子か何かを手渡したら、かわりにアメをもらったのかも知れない。話を聞いたりする中でなんとなくアメを手渡されたのかも知れない。いずれにせよ、読者として私が小さく虚をつかれたように、主体も虚を突かれたのではないだろうか。その小さな心の揺れが一首を屹立させているように思う。「飴玉」となっているので、事前に渡すために用意していたものというよりは、ありあわせのものをコミニケーションの一環として手渡したような手触りがある。

下句で描かれるのは場面の転換だ。上句の状況をある程度説明することもできただろうが、作者はそうしない。それによって、落ち込んでいるあなたから飴玉を貰うという状況だけが、印象的に浮き上がる。

歌集中では、この一首の前に「ウンガロのシャツを好める父上を訪ねる大きな西瓜を持って」という歌が配されているが、「あなた」が「父」なのかはわからない。大きな西瓜を持って行く場所は家な気がして、それは「自動ドア」とどこかそぐわないので、どちらかといえば違うような気がする(もちろん病院とかマンションの自動ドアという可能性もあるが)。そして、一首の場面が確定できない方が印象に残るような気がする

「自動ドアを出でたり」とあるので、主体は外界に出ていく。落ち込んでいるあなたから飴玉を貰ったことも、それによって心の動きが生じたことも、すぐに忘れてしまうことだろう。しかし、一首の歌に刻まれることで、印象的なこの出来事は残り続ける。

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