飯蛸のいいがぎっしり詰りいるような頭痛の何年ぶりぞ

坂田 久枝『自転』(青磁社 2006年)

 

 頭痛はとてもつらいもので、痛みがあると心が晴れないし、物事も前向きに考えられない。片頭痛、緊張性頭痛、群発型……。その要因は、疲れ、寝不足、スマホの画面の見過ぎ、バイオリズムの低調など様々で、ここ数年はマスクの締め付けや息苦しさによる「マスク頭痛」も少なくなかったようだ。

 

 この歌の主体は、久しぶりに重い頭痛を味わっている。「飯蛸のいいがぎっしり詰りいるような頭痛」である。この比喩がたまらない。

 

 「飯蛸」は小振りの蛸で、春、腹に卵を持つ。その卵がご飯粒に似ているのでこの名が付いた。蛸の絵を描くときに頭みたいに膨らんでいる部分が、実は腹だそうで、あそこに白い卵が隙間無く詰まっているのだ。

 そんな頭痛。

 

 痛みを人に言葉で伝えるのはとても難しい。痛みはあくまでも主観的なものであるから。そして、今、痛みを感じているのは本人だけであるから。もちろん想像はできる。できるけれど、「すごく痛い」と言われても、なかなか共有はできない。実際の場面では、言葉以上に、非言語分野でのコミュニケーションによって、伝達されているところが大きいのだろう。

 

 だが、この歌は、文字だけでありながら、生理的に気持ち悪い部分に触れてくる。自分の頭にも卵がぎっしりと詰まり、身動きができなくて、頭も首筋もこわばるような感じがかすかにする。「ぎっしり」というオノマトペの効果が小さくなく、また、飯がたくさんというところには、集合体恐怖症――トライポフォビアめいた気持ち悪さもあって、言葉が他者のからだに作用する可能性を感じられる。

 

 飯蛸は美味しいのだが……。「頭痛」と結び付いてしまった。

 

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