目と耳と鼻と唇とがゆつくりと分解するやうなベンチの日溜り

古舘 公子『観覧車』(短歌研究社 1994年)

 

 日差しが暖かくてぽかぽかしてくるとからだが緩む。すると、顔を構成する各パーツも、凝集力を失い、ゆったりと離れてゆく気がする。

 「目と耳と鼻と唇」。一つ一つが、普段、あるべきところに収まっているのは、ある種の緊張感によるものだ。だから、それが薄まれば、一つずつを結びつける糸がほどけてくる。スローモーションの宇宙遊泳のように、ふわふわと離れてゆく。とどめようもない。

 けれど、ままよ、である。心地よさには変えられないのだ。

 

 結句の「ベンチの日溜り」という言葉が存外に効いていて、暖かで心地よい野外の空気感を一瞬にして連れてくる。

 また、「目と耳と鼻と唇」。一つ一つを言うことで、それぞれの存在感が際立ってくるのだが、「目と耳と鼻と唇を」ではなく、「目と耳と鼻と唇が」としたところで、それらが意思を持つようなニュアンスが付け加わる。いつもはそれなりに操れるはずが、不随意の動きを始めるのだ。そして、福笑いのごとく、顔面は乱れ、崩れる……。

 

 「分解」というのは独特な表現。しかし、よく伝わる。

 また、これまでそれを、顔の全体性を失うという意味で読んできたが、各パーツごとに細やかな粒子になるという解釈もできる。

 あくまでも体感。自らの体感を言葉にしたときに、もっともよく伝わる表現が見出された。

 

 分解しきってしまったら。

 ……けれど、ままよ、である。心地よさには……変えられな……い……

 

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