をさなさははたかりそめの老いに似て春雪かづきゐたるわが髪

大塚 寅彦『刺青天使』(短歌研究社 1985年)

 

 「忘れ雪」という言葉がある。そのシーズンの最後に降る雪、春の雪である。水分が多く、すぐ溶けるけれど、もう降ることはないだろうと思っていたものだから、その白さが目に珍しく、いっそう印象深い。

 掲出歌は春の雪が降ると必ず心に浮かぶ歌で、慌ただしい季節のはざまにあって、遥かな尺度の存在を思い出させる。

 

 春の雪が髪に載ると白くなる。一瞬、それが白髪のように見え、まるで老人になったかのような思いがしたのだ。街角のガラスや鏡に映った自分を目に留めたと取っても、今、野外に立ちながら、そう見えるだろう自分を想像したと取ってもいい。

 「をさなさ」とは、常よりわきまえられている自画像であり、自らだけが知る、揺れ動く心や、突き動かされる情熱への自覚も含まれる。また、春の雪のもと、濡れながら歩く稚気への認識でもあろうか。

 「はた」は「また」。「をさなさ」と「老い」はイコールだと言うのである。

 

 「頭の雪・霜」と「老い」との結びつきは、李白の漢詩「秋浦歌」の

 

  白髪三千丈(中略)   白髪三千丈

  何処得秋霜       何れの処にか秋霜を得たる

   (長い長い白髪。いつの間に秋の霜に似た白髪を得たのか)

 

などにも見られ、多くの和歌でも詠まれている。

 

 また、掲出歌からは、どうしても、伊達政宗の漢詩を連想してしまう。

 

  馬上少年過        馬上少年過ぐ

  世平白髪多(後略)    世平らかにして白髪多し

   (馬を走らせた若き日は過ぎ、泰平の世に私は老いた)

 

 人生は一瞬である。春の雪があっという間に溶けるように、幼い者もすぐに老いる。「かりそめの老い」は「かりそめのをさなさ」へと時をおかずに反転する。刹那の幻視は、青年の確かな予見であった。

 

 二十一歳の若き作者が発表したこの歌は、これから踏み出す未来に焦がれつつ、畏れつつ生まれたものであった。だが、年を経て人生の別な場所に立てば、また異なる深みを味わわせる、そういう歌である。

 

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