りんごひとつ手にもつ時に空深く果実に降るは果実の時間

櫟原聰『光響』不識書院,1989年

上句と下句が不思議な繋がり方をする。
初句から読んでいくと、まず初句二句で手に持った林檎、なんとなく片手にのった林檎を思い浮かべる。三句目の「空深く」の解釈に少し悩むが、野外で、たとえば青空を背景に林檎をかかげられているようなイメージととりあえず取る。そして、印象的な下句につながる。
「空深く」がなくとも意味としてはつながるし、「空深く」がどう働いているのかは、厳密に意味を掬おうとするとわかりにくい。ここで軽く切れるのか、「降る」を修飾しているのか、ちょっと考えてしまう。
それでも、「空深く」があった方がよいような気がする。例えば、〈りんごひとつ手にもつ時にしんしんと果実に降るは果実の時間〉と特に意味を付さずに初句二句と下句をつなげることもできるし、これはこれで悪くはないような気もするのだけれど、引っ掛かりがなくて、抽象度の高い林檎の歌になるように思う。「空深く」があることで、初句二句と下句に距離が生まれるように思う。林檎を持つ現実空間と、林檎に果実の時間が降り注ぐ一段階非現実的な空間。初句二句と下句のレイヤーが異なる感じがして、現実空間から詩的な空間への越境みたいなものを読者は体験できる気がする。

一首においては、「手に持つ時に」という限定が付されているが、その限定に対置されるのは、例えば樹になっている林檎であり、収穫されて駕籠に盛られている林檎であり、函に並べられている林檎だろう。そこに存在するのは、「果実の時間」という純粋な時間の流れではなくて、林檎の樹の時間であり、人間の時間であろう。手に持って、空の下に掲げられることで、ようやく林檎はその「果実の時間」を獲得することができるのではないだろうか。〈林檎の時間〉ではなく、「果実の時間」とされていることで、一首はこんな深読みを誘う。
そもそも、林檎自体がかなり意味を付されたアイテムであろう。禁断の果実を想起し、万有引力の発見を思い出す。「空深く」というスケールの大きな措辞とも響き合う。「空深く」という措辞から、櫟原の師である前登志夫の「銀河系そらのまほらを堕ちつづく夏の雫とわれはなりてむ」(『樹下集』)なども思われて、よけいに規模感は大きい。

人間の手に持たれた林檎は、やがて食べられるか、朽ち果てるかしてしまうだろう。儚く現実的な林檎の行末を思う時、この「果実の時間」を妙にさみしく思ってしまう。

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