梓 志乃『阿修羅幻想』(短歌公論社 1982年)
韻律がうねりを持っている。「なぜそんなに」とこぼれた音を「急ぐのですか」とやや冷静に抑えて問いかけたのち、「花がいそぎ春がいそぎ」と畳みかけながら歌は大きく膨らむ。しかし、膨らみは、終息へと向かわざるを得ない。「私には」という痛切な自覚と絡み合いながら、「もうとどかない」の諦念とともにしぼんでゆく。
むろん、ここでの律はこころの動きとイコールである。
急いで去られてしまうこと、それに「とどかない」自分であることが、本当にせつなくて、質さずにはいられなかったのだ。「なぜ」、「もう」の嘆息とともに、情動は歌になる。
去って行くのは「花」であり、「春」である。どんな季節も時間も刻々と過ぎては行くけれど、厳しい冬の後にようやく迎えられた春のものたちには、とりわけ長くいてほしい。
この時、花も春も、そのものでありながら、何かの象徴でもあるかもしれない。たとえば、人生の花。春のような人。
二つある一字空けをしっかりと捉えて、その間に挟まれた中の句を挿入句のようにして読めば、「なぜそんなに急ぐのですか私にはもう届かない」という痛みに貫かれた一首を、ささやかに美しく飾るものとして、「花」や「春」が見えてくる。
春を惜しむ心は、昔から多くの詩人に詠われてきた。
行く春や鳥啼き魚の目は泪 芭蕉「おくのほそ道」
年年欲惜春 年年春を惜しまんと欲すれども
春去不容惜 春去りて惜しむを容れず
蘇軾「寒食雨」(抜粋)
なぜ急ぐの。ああ、もうとどかない。
年ごとに、春が過ぎるのが速くなる。