てのひらのうへに落ちたるはなびらを見つめるひとが風景となる

宇田川寛之『そらみみ』 いりの舎,2017年

桜の季節、満開の桜をみている人がいる。花見をしているのか、桜のが咲いているから歩を止めたのかはわからない。桜の花びらが風に舞い、手のひらに落ちてくる。春らしい情景が像を結ぶ。

一首においては視線の移り変わりが印象的だ。上句では手のひらに落ちた花びらが大写しに像を結ぶ。風に舞う花びらが視線を横切り、視線を上げれば満開の桜の木が眼前にある。そんなイメージだ。ここまでは手のひらの持ち主は主体である気がして、主観的な映像が結ばれていく。
四句目で「見つめる人が」と上句を受け取る。ここで、初句の「てのひら」が主体のものではなく、他者のものであり、主体はその他者を見ていることが明示される。結ばれていた像は手のひらからズームアウトし、「見つめるひと」の全体像となる。「見つめるひと」のまわりには桜はなびらが舞っている。
結句で一首の視線は、それまで焦点があっていた「見つめるひと」から全景に及ぶ。四句目までの描写とは異なり、「風景となる」と大掴みな把握が提示されるのだけど、これによって一首が提示する像は、「見つめるひと」からその周囲にも及ぶ。周囲の状況までは明示されていないので想像する他はないが、満開の桜の木や、周囲を行き交うひとや自転車、他にも桜を見ているひとなんかをイメージする。

一首において、〈花びらがのった手のひら〉→〈花びらがのった手のひらを見つめるひと〉→〈周囲の状況を含めた全体像〉と焦点が移り変わる。特に結句において、「見つめるひと」にのみあっていたピントがすっと画面全部に移り変わる瞬間があって印象的だ。どこか、主体の視線がビデオカメラのレンズのようで、美しい映像作品を言語化したような趣きがある。

この一首において、花びらは桜とは明示されてはいない。だけれども、手のひらに落ちてくる花びらというとなんとなく桜を想起してしまい、花といえば桜を意味するというような古典和歌のお約束を思い出す。他の花でも一首が成り立たないわけではないのだろうけど、一首が想起させる映像は、桜でなければうまく像を結ばないような気がする。

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