いつせいに風上を向く傘の先雨が歌だと知つてゐるのだ

木ノ下葉子『陸離たる空』港の人,2018年

小雨ではなくて、ある程度しっかりと雨が降っている。それなりに風も吹いている。風が強まった瞬間、横向きに降る雨に濡れないように、傘の向きを風上に向ける。傘を風が押す手応えがあり、ばらばらと雨が傘に当たる音がする。そんな状況を想像する。
「いつせいに」とあるので、眼前にはある程度の数の人間の存在を感じる。人通りのある街角のような場所を想像する。通りを見渡すことができる室内に主体はいるのかも知れないし、外で傘をさしているのだとしても俯瞰的な視点で描写しているように思う。

そこにいる人たちが一様に同じ動きをする。下句の「雨が歌だと知つてゐる」というテンションの高い断定と相まって、その動きはどこかコミカルに感じられる。映画「雨に唄えば」の有名なワンシーンのように、雨と戯れているような気配が漂う。

実際には人々は濡れないように必死で傘をさしていて、楽しいと思いながら歩いている人は稀だろう。服が濡れて、靴が濡れて、街行く人々のテンションは決して高くはない。少しでも早く雨に濡れない場所まで行きたくて、転ばないように慎重に早足で歩く。ストレスフルな状況であり、「雨が歌」などとは到底思えない。

一方で、私は「雨が歌だと知つてゐる」ような気もする。小さい頃、長靴を履いて傘をさして、強い雨の中を外へ出て、バチバチという傘に雨が当たる音を楽しみながらうろうろしたことがある。雨に濡れることへの抵抗が大人になった今よりずっと少なかった頃。確かに、そこでは「雨が歌」のように感じられたかも知れない。一首を読みながら、そんな記憶がかすかに疼く。

皆が一様に風上に傘を向けた。ミュージカルのワンシーンのようなその一瞬に、「雨が歌」だった頃の記憶が引きずり出されたのかも知れない。記憶の中の雨のイメージと現実が混ざった場所が生じている、そんな風に感じられた。

靴先で流れ裂きつつ遡上せむ梅雨の坂道水脈引きながら/木ノ下葉子『陸離たる空』

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