逢坂みずき『虹を見つける達人』(本の森 2020年)
まず、冒頭でびっくりする。死ぬまでの時間を「暇」と軽やかに言い切ったことに。
そう……か?
そう……かもしれない。
毎日が忙しくて、時間がいくらあっても足りないという人もいるが、暇だと思う人もいるだろう。そう感じる時期もあるだろう。
だが、ここまで書き、この歌の「暇」はそういうレベルのことではないと思い直されてくる。
作者と主体はイコールではないが、前後に置かれた歌から見れば、掲出歌は十代で詠まれたもののようだ。
人生の残り時間の多さ、そして、これから何に目を向けていくかというところでの可能性の大きさ、たぶんそういうものが「暇」という言葉に置き換わっている。
結構、身も蓋もない言い方だけれど。
大いなる空白。
気づいたらもう生まれていたし、生まれたからには死ぬまで生きていくしかないが、その間、何をしていくのかは、まだ定まっていないということだ。そうして、少なくとも今は、無理に定めたくはない、ということだ。
それでも、やってみたいことはある。
歌をうたうこと。花の名前をもっと知ること。
「たい」を二つ重ねながら、明快にそこへの意気込みは示されている。
どちらも、やろうと思えばすぐできる、ささやかなことである。非パブリックな、身近なことである。自分を喜ばせられることである。
だが、本気で「歌」と「花」に専心するというなら、これは、なかなか難しいことでもある。
どうだろう。その入れ込みの度合いはわからない。が、いずれにせよ、こんなふうに暮らしたいのだ。「歌」や「花」を、もっと大きなもの、社会的なものよりも大切にして。
硬い表現をすれば、この歌は、こういう方向の人生を送りたいという言挙げなのである。
そうしてみると、「死ぬまでが暇だな」は可愛らしい言い訳、可愛らしい理由付けのような気もしてきて。
大いなる「暇」が私たちには与えられていて、死ぬまでの時間をどう使うかは各人の自由で。
本来はそうで。
そういう、そもそものところに、思いを馳せてみる。