濱松哲朗『翅ある人の音楽』典々堂,2023年
コンビニやスーパーで会計をする場面を想像する。小銭で支払いができそうだと思って小銭を数えると会計金額に十円足りない。仕方なく千円札を取り出して支払いをすませる。小銭から使うことができれば、ましてやぴったりと支払いができたら少し嬉しいので、それが叶わなかった残念さがほんの少しだけ感じられる。そんな状況であろうか。
支払った千円札は角が破れている。「わづかに」という程度なので、視認できるけど使用には差し支えない破れなのだろう。破れた紙幣だと認識して財布に入れていたのかはわからないが、結語の「まま」に、感情のかすかな揺れを感じる。
上句も下句も日常的な出来事だ。確かに、そういう事はあるよなと思う。ただ、いつどんな状況でと問われても思い出せない程度には些事だろう。そのふたつが取り合わさっても、些事と些事の掛け合わせに過ぎない。ただ、このように一首として提示されると妙に心に残る。
小銭で払えそうで払えないのも、千円札がかすかに破れているのも事実の提示であり、どちらも込められた主体の感情は大きいものではない。前者の残念さは微々たるものだし、後者の感情の揺れもかすかなものだ。いずれもすぐに消えてしまう感情の揺れだろう。
使用できない状態になった紙幣を損傷現金と呼ぶらしい。端っこが破れた程度であれば使用は可能だろうが、ある一定以上の破損があれば、紙幣としては使用できなくなる。そこには〈滅びの予感〉のようなものがあり、それを不意に手渡してしまったことへのかすかな感情の揺れが存在するのかもしれない。
ゴム印の角欠けをればうつらざる番地のうへに風のさまよふ/濱松哲朗『翅ある人の音楽』
特売の幟ゆれたる店先に新玉ねぎは芽を出してをり
使い込まれて角が欠けたゴム印、店先で芽を出している新玉ねぎ。いずれも、人間が設定しているその物の価値が摩耗している。ただ、与えられた役割をまっとうしているかに思える物への視線は冷たいものでは決してない。かと言って滅びゆくものとして美化されているわけでもない。
眼前に存在するそれが、かすかな心寄せを伴いながら過不足なく描写される。それが妙に心地よい。
掌のなかに蛍いつぴき潜ませておしまひまでのみじかいページ/濱松哲朗『翅ある人の音楽』