煮えたぎる鍋をかき混ぜ繰り返す「きれいな兵器きたない兵器」

松村由利子『大女伝説』(短歌研究社  2010年)

 

 いわゆる黒魔術を施しているのか。良い魔術に思えないのは、「煮えたぎる」の過剰さとともに、「兵器」という単語が入っているからだろう。

 「鍋」は大きい鍋に違いない。それをゆっくりとかき回す。呪文のような下句を唱えながら、何度も何度も混ぜていくのだ。

 

 「きれいな兵器」と「きたない兵器」があるとして、その違いはなんだろう。防衛のための使用なら「きれいな兵器」で、侵略なら「きたない兵器」になるのか。それとも、ピンポイントで悪者を殺傷できれば「きれい」で、無差別攻撃なら「きたない」なのか。

 わからない。わからないが、「きれい」な方が歓迎されやすい気がする。いや、兵器であるならば、一見「きれい」な、その実「きたない」兵器の方が喜ばれようか。

 そして、この場面ではどういうものをつくろうとしているのだろう。

 「きれいな兵器」と「きたない兵器」を分けて生成しているのか、その両面を併せ持つ究極の兵器を生み出そうとしているのか。

 いずれ、鍋に入っている材料はすごいものに違いない。がまの毒やとかげの尻尾や薬草のみならず、塩酸や水銀やウランやプルトニウム、さらに、憎しみや怒りや恨み、おびえなども不可欠なのだろう。

 

 「きれいな兵器きたない兵器」という文句は、シェイクスピアの「マクベス」の冒頭、三人の魔女達が言った「きれいはきたない、きたないはきれい」の呪文を思い出させる。そう、まさに、魔女の呪文なのだ。

 

  Fair is foul, and foul is fair.

 

この部分はいろいろに訳されていて、「きれいはきたない、きたないはきれい(小津次郎訳)」、「きれいは穢い、穢いはきれい(福田恆存)」の他にも、「いいは悪いで、悪いはいい(小田島雄志)」、「いいはひどい、ひどいはいい(松岡和子)」とも解釈されている。

 fair」はフェア。公正な、正しいという意味である。「foul」はファウル。不正、不当なという意味を持つ。つまり、直訳するなら、「正しいは不正、不正は正しい」となるのだ。

 この世の様相は、二項対立的な考え方ではすっぱり割り切れない。たとえば、先に「悪者」と書いたけれど、片方から見れば極悪非道な奴が、もう片方から見れば英雄となっているのは、本当によくあることだ。

 本来は、兵器にきれいもきたないも正しいも不正もないのだろう。兵器は兵器、人を殺す物。だが、それを使う場合には、どうしても理由が要る。道理が要る。そういう道理がぶつかり合いながら、ない交ぜになりながら、混沌を形づくっているのがこの世界だ。

 「煮えたぎる鍋」はそんな混沌とした世界の象徴でもある。

 さらに、そんな世にあって、鍋の前に立ち、鍋を回し続ける「腕」というものが存在する。リズム良く、どうかすると楽しそうに、呪文を唱えながら兵器をつくる者が、確かに存在しているのだ。

 

 この箴言性の深さ。暗さ。

 それにおののく歌である。

 

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