夕顔のかなたに銀河の流れあり庭の辺しずかに水の光りて

安部洋子『西方の湖』砂子屋書房,2011年

庭に夕顔が植っている。咲いているという指定はないので、花が咲いていない日中の可能性や、まだ花が咲く季節ではない可能性もあるのだけど、「夕顔」と初句で提示されるとなんとなく咲いた花が想起される。花が咲いていて、水の光が視認できるのなら、夕方に花が咲いたところ、あるいは、早朝の花が萎む前だろうか。

想起される像は、初句「夕顔」から「銀河」に飛び、「庭」に戻る。スケールの大きい飛躍だ。夕顔と銀河が結ばれる線は遥かな距離であり、その線を視認することはできない。
「銀河」はその「流れ」が提示される。天文学上の銀河というよりは川に近い捉え方がされ、いくばくかのデフォルメを含んだ印象だ。それは、遥かな距離があるゆえであろう。その河の流れは、下句の「水」と響き合う。水が帯びる光も「銀河」の光を返したものかもしれないと思う。

水の解釈に少し悩む。水たまりのようなものや、池のようなものをまず想起する。ただ、源氏物語「夕顔」の巻で夕顔が詠んだ「光ありと見し夕顔の上露はたそかれ時の空目なりけり」や、「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」が頭をかすめて、「水」は花に付された露かなと思ったりする。

夕顔は儚いイメージを持つ。極めて短い時間しか含むことのできない眼前の夕顔と、遥か彼方で悠久の時を含んだ銀河の対比は鮮やかだ。両者には距離があるが、その距離の飛躍自体も、目が回る飛躍という印象はあまりなく、案外自然に受け入れられる。
それは、「流れ」の提示によって、銀河が認識可能なものとして把握されている効用でもあろうし、儚さの切先に存在する〈死〉が遥かな存在と結びつくからでもあるだろう。一首の背後には前述の源氏や、例えば中河与一の『天の夕顔』のような文学作品が錘のように存在する気がする。

身回りの風景から飛翔するフックそのものは提示されていないのだけど、「夕顔」という名詞から広がる想像が「銀河」と結びつく。「夕顔」の儚いイメージと遥かな銀河の取り合わせはどことなく〈死〉のイメージを含む。『源氏物語』の夕顔も『天の夕顔』のあき子も作中で死を迎える。
ただ、一首には暗さが溢れてはいない。それは大いなるものとの一体感によって獲得したものなのかもしれない。

夏草の繁りもやがて衰えむ夕べをしんと動かぬひととき/阿部洋子『西方の湖』

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