舌赤く染めて硝子を食べているわたしが夏に産みし生きもの

藤田 千鶴『貿易風トレードウインド』(砂子屋書房  2007年)

 「硝子を食べている」という言い方にショックを受ける。無論、硝子ではなく、かき氷を食べているのだろうということはわかる。「舌赤く染めて」とあるので、イチゴ味のシロップだろうか? けれども、このダイレクトな比喩の持つ力にはひやりとさせられる。言い切るメタファーの衝迫力である。

 

 いわゆる異食症では、紙、土、体毛などを口にしてしまう。硝子や釘を食べる人もいるそうだ。特定の栄養素の欠乏やストレスなどが原因のようだが、いずれ、バランスを崩していて危うい状態だ。そんな危うさが、この歌にも作用している。

 ましてや「硝子」は、壊れやすく繊細で透明な、それでいて触れるものを傷つける鋭さを持つものである。舌の赤さは、もしや口の中を傷つけた、その血まみれの赤ではないかとも思えてきて。

 そして、食べている主体は、「わたしが夏に産みし生きもの」なのだ。おそらくは、「わたし」の子のことだろう。だが、「生きもの」と言いなした時、「わたし」とそれは、一瞬間にひどく遠ざかる。冷厳な距離感がそこに生まれる。そうして改めて眺めるのである、完全なる他者の目で。奇妙なものを、奇妙な生きものが食べているところを。

 

 隔たりの歌であると思う。「かき氷」―「硝子」、「子」―「生きもの」のそれぞれに存在する距離感が関わり合いながら、歌の質感を生み出している。生々しいのに作り物めいているような、痛ましいのに手を出せないような、そこにいるのに遥かな存在であるような、眩暈のような感覚を。

 

 生きもの。確かに身の内にあったものが、ひどく遠ざかってしまった。

 「産みし」夏はなおさら、そういうことを想起させる季節でもあるのだろう。

 

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