肉体にすこし遅れてたましひは飛込台からいま宙にあり

喜多昭夫『銀桃』雁書館,2000年

飛込競技の一場面。「スプラッシュ」と題が付された連作中の一首だ。連作冒頭には「太陽を磁石のやうに引きつける飛込台にわれ一人立つ」が配されていて、掲出歌は主体が飛込競技を行っている場面を描いたものとして読む。二首目には「飛び板に全体重をかけて蹴る入水の音小さくあれよ」が置かれ、三首目に掲出歌が配される。

飛込台からプールへと飛び込む。その瞬間、肉体が飛び込むのに少し遅れて「たましひ」が飛び込むという。
高さにもよるだろうが、飛込競技において競技者が空中にいるのは一、二秒というところだろう。その一瞬の美しさを競うために、恐怖心を克服し、練習を積み重ねる。膨大な練習時間の堆積が、飛び込むその一瞬に収斂する。その時間の感覚はおそらく独特なのではないだろうか。

飛込競技をやったことはないのでこれは想像に過ぎないのだけど、演技時間が極めて短い飛込だから、ひとつひとつの動作が思考と結びつくというよりは、練習によって体に覚えこませた動きが競技中にあらわれる、ような気がする。練習してきた時間と自分の集中力を信じて飛び板を蹴る。二首目の歌の下句「入水の音小さくあれよ」は祈りに近い。だからこそ、肉体に少し遅れて魂が飛び込むのではないだろうか。

また、飛び込みに際してどれほどマイナスGがかかるのかはわからないけど、高所から飛び込むときに身体がおぼえる感覚には独特なものがありそうだ。ふっと身体の中が浮く感じ。落下するアクティビティで体感するあの感じに近いものがあるなら、「たましひ」が肉体に遅れる感覚は理解できるような気がする。

飛込競技の経験がない者には作者の意図に確信を持つことはできない。それでも、想像することはできる。一首が湛えた緊迫感のある静けさの中で何が起きているかを考えるのは面白い。そしてそれは、一首の短歌としての魅力を前提としている。

そんなことを考えながら掲出歌を読んでいると、常日頃、自分が〈わかっている〉と思いながら読んでいる日常領域の歌を〈わかっている〉と思ってよいのか、どんどん不安になってゆく。

水面に顔出すわれに「スプラッシュ、あがりすぎだ」とコーチが叫ぶ/喜多昭夫『銀桃』

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