一生パソコンに触れず飛行機に乗らず母はみどりの明るい古墳

林 和清『朱雀の聲』(砂子屋書房  2021年)

 

 高齢世代がパソコンに触れるかどうか。

 情報機器の発達と並行して自身も歳を重ねていく中で、タイミングを逃し、とうとう触れずじまいになったという方も少なくないだろう。

 たとえば、内閣府の2020年の調査では、パソコンでインターネットを利用している人が、70歳代では全体の3分の1弱、80代以上では一割だそうだ。インターネットの使用=パソコンの使用ではないし、他にスマートフォンやタブレットを利用している可能性もあるが、やはり、その世代の誰もが当たり前に使っているという感じではない。

 

 こちらの歌の「母」も、一生パソコンに触れることなく、さらに、飛行機に乗ることもなかった。この二つには、世界を広げるという共通項がある。しかも、ぐんと広範に。

 つまり「母」は、自分の守備範囲というものを、物理的にも意識の上でも、劇的に拡大することはなかったということになる。

 そしてそのまま、今は「みどりの明るい古墳」なのである。

 

 この「古墳」については、二通りの解釈がある。

 一つは、「母」が亡くなっていることの示唆。古墳は墳墓、墓であるから。

 もう一つは、存命だけれど、その存在が「みどりの明るい古墳」のようだという比喩。この時、「古墳」は、「パソコン」や「飛行機」の対角にある。現代を表すアイテムの反対に置かれたのが、古代のプリミティブな大地なのだ。

 

 「一生パソコンに触れず飛行機に乗らず」だったことを主体がどう捉えているかと言えば、触れさせてあげたかった、乗らせてあげたかったと感じているとは思う。興味のあるものを検索してきれいな画面で眺めたり、料理のレシピのヒントを得たり、海外旅行に行ったり。「触れ」たり「乗」ったりすることで楽しめることはたくさんあるので。「ず」~「ず」の打消の重なりは、苦さをほんの少し滲ませつつ、「触れてたら、乗ってたら」という仮定の世界を連れてくる。

 だが、そういうことをしない一生でも、それはそれで良かった、そんな思いの方を強く感じる。必ずしも、進歩する時代に沿い続けることが良いわけではない。今いる場所で、どっしりとほっこりと気持ちが満たされていれば、十分すばらしいことだ。

 

 古墳は動かない。日を浴びて温かく明るく、こんもりとそこにある。「みどりの明るい」とは心の晴れ晴れする嬉しい表現だ。素朴な肯定感だ。

 なんであればいつでも、古墳のそばで深く息をしたり、また、登って寝転んだりすることもできるやも。それは、古墳がどこにも行かないから。むやみに変質せずに、そこにあるから。

 前近代どころか古代。だからこそのおおらかさに安らぐ。

 

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