絞りきるまでのレモンがじんわりと舌の在り処を教えてくれる

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』書肆侃侃房,2014年

一首が提示する時間は短い。
「絞りきるまでのレモン」が提示されることで、果汁を搾りはじめてから搾り終える短い時間であることがわかる。指先でレモンをぎゅっと潰して揚げ物なんかに搾るのであれば一、二秒間の、ジューサーのようなもので果汁を搾っているのだとしても数秒間の出来事だろう。一首の韻律はゆったりとしていて、その一瞬がもう少し長い時間に引き延ばされたように感じられる。
「じんわりと」の挿入が一首の時間をさらに引き延ばす。「じんわりと」はレモン果汁が搾り取られる様子をあらわし、口腔に唾液が滲む状況も、舌の存在を認識する感覚も同時にもあらわす。ゆっくりと果汁が搾られ、唾液が滲み、舌の存在を感じる。時間としては一瞬なんだけど、いずれにも「じんわりと」は適切な感じがして、一首の中で無理なく時間が引き延ばされる。

搾られるレモンを見ていると唾液が滲む。経験したことがある現象だ。レモンからじんわりと果汁が搾り出されて、条件反射で唾液が分泌される。そのことによって、レモンが舌の場所を教えてくれるのだという。

日常生活を送る中で舌の存在を感じる瞬間はさほど多くはない。口腔に舌が存在することはもちろん知っている。今こうやって舌のことが話題にのぼると、舌を動かしたりして、舌の存在を感じることができる。ただ、日常の中では、舌がそこに存在することは忘れられている。
熱いものを口に含んだ時や、口内炎のようなできものができた時、舌を噛んでしまった時、舌になんらかのダメージを負った時には舌の存在を思い出す。舌という身体の一部が傷を負い、痛みが舌を襲うと、舌の存在感は大きくなる。

掲出歌が提示するレモンを搾る様子は、舌に触れずに舌の存在を認識させる少ない状況のひとつだろう。搾られているレモンを認識し、口腔に変化が生じることで舌の存在が認識される。ただ、しばらくの間は舌の存在を感じ続けるであろう舌に傷を負った場合とは異なり、レモンによって在処を伝えられても次の瞬間には舌の存在は忘れてしまう。レモンを搾った唐揚げにかぶりつき、ビールでも飲めば、レモンが教えてくれた「舌の在り処」も霧散する。
そう考えれば、ずいぶんとはかない時間が切り取られた一首だと思う。

レモンが搾られるのを見て(あるいは想像して)、口腔の状況が変化するのは学習の帰結だ。レモンを食べて酸っぱい思いを何度もして、レモンが口腔内に入ったら起きる変化を身体がおぼえる。レモンをはじめて見た人は、レモンを搾る様子を見たとしても、レモンに舌の在り処は教えてもらえないだろう。

一首が提示している時間は短いのだけど、一首が内包している時間は案外長いのかもしれない。

淡青のひかりを水にくぐらせて小さき花瓶を洗う七月/中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』

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