洗われた夜明けの海に立つ虹よ あと2メートル可愛くなりたい

鯨井可菜子『タンジブル』(書肆侃侃房  2013年)

 

 「単位」の使い方が絶妙の歌である。

 「あと2メートル可愛く」とは、どのくらい可愛くなのだろう。かなり、とも思うし、そこそこ、とも感じられる。それはもう比較の問題で、「2ミリ」や「2センチ」よりはもっともっとなんだろうし、「白髪三千丈」や「千尋の谷」などと考え合わせれば、ほんのささやかな願いとなるのだろう。

 

 そもそも、可愛さをはかる単位というものはない。1キログラム可愛いとか、30枚分可愛いなどと言うことはない。そこを、単位を使いながら表してみた、つまり、はかれないものをはかろうとしたところがこの歌の手柄である。

 単位というのは、客観的な共通の認識であるので、国や時代によってもその基準が異なる可愛さをはかることはできない。

 だから、あくまで「2メートル」も、主体の主観に過ぎないのだけれど、その時の感覚を率直に言葉にしたらこういうことだったのだ。

 

 そして、この「2メートル」は「虹」と響き合う。

 一字空けを挟むということもあり、上句と下句はダイレクトにはつながらないけれど、それでも、海に立つ虹の高さがこの「2メートル」を引き出したことは、どうしても感じられてしまう。

 「メートル」の「―」=伸ばし棒の長さもいじらしい。ぐんと伸びる見た目と音感を持ったこの単位が選ばれたのは、腑に落ちる。

 

 「洗われた夜明けの海に立つ虹」。すてきだ。

 生まれたての清新な虹に「よ」で呼びかけながら思ったのだ、「あと2メートル可愛くなりたい」と。

 この「なりたい」からは、人任せの無責任さではなくて、いささかの決意めいたものも感じられる。それは、悪天候である雨や嵐の後にこそけなげに劇的に現れる虹の宿命性や、「洗われた」の受身のあとに自立的に「立つ」虹という、動詞の質の転換が作用するところとも関係する。

 主体的・積極的な雰囲気が漂うのだ。

 そうして、「あと」2メートル、というところにも着目したい。むやみに可愛くなりたいのではない。既存の可愛さの上のさらなる可愛さ。いけそうだ。遠い夢物語ではない。

 

 夜明けの海の虹とわたし。虹のように大きくは立てなくても、せめて、あと2メートル近づけたなら、憧れの領域に近づけたなら。

 顔を上げて見つめる、その正対の構図が輝いている。

 

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