しっかりと命の気配を消しておくランチに添える固茹で卵

奥村知世『工場』書肆侃侃房,2021年

関西の一部では、ゆで卵のことを〈にぬき〉と呼ぶ。学生時代に働いていたラーメン屋のおかみさんが、にぬき、にぬきと言っていて、最初はなんのことかわからなかったが、聞いてみるとゆで卵のことだという。関西でもそう呼ぶ人は必ずしも多くはない。にぬきは煮抜き。煮抜いた固茹での卵のことを指すことが多いようだ。有名な料亭である瓢亭の〈にぬき〉は黄身がトロッとした半熟らしいので、固茹で限定というわけではないのだろうが、固茹で卵を指すというコンセンサスが一部地域では形成されている。

掲出歌はランチに添えるゆで卵を作っている。お弁当に入れるから傷まないよう黄身を固めているのか、単なる主体の好みかはわからないけど、卵は固く煮抜かれている。「添える」とあるので、ランチのメインではないようだ。

上句の把握が面白い。卵を固茹でにする行為を「しっかりと命の気配を消」すことだと捉える。卵というのがかなり直接的に生命を想起させる食材であり、熱を通すと凝固するという特徴も相まって、命の気配を消すという把握には強い納得感がある。卵は人間に食べられるためにこの世界に存在するわけではないのだけれど、スーパーで売られている鶏卵は人間が食べるために産み出されている。普段はそんなこと気にも留めないのだけれど、どことなく不思議な状況が一個のゆで卵の背後に広がっているような気がしてくる。

食べ物が生命であることを読者に思い出させることで一首として成り立たせる、そんな構造の歌は一定数存在するように思う。日常の中で普段は見えない食と命のつながりを見出すことで、読者を揺さぶりをかけられる。

初句の「しっかりと」は、卵を固く茹でる行為を修飾するのと同時に、固茹で卵のみっしりと固まった感じも感じさせる。ランチの片隅に存在する固茹で卵に、命の気配はない。それでも、一首の短歌として提示されることで、主体が卵から感じた命の気配は残り続ける。

煮抜きという言葉をはじめて聞いたとき、卵を煮抜くのではなくて、煮て生命を抜くのだと思ってしまった。関西弁は詩的だなと妙に感心してしまい、誤解だったと知った今でも、ゆで卵を作る時にときどきそのことを思い出す。ゆで卵は外形が変化しない料理だ。殻の内部だけが凝固する。目に見えない変化なので、魂のようなものが抜けている可能性は否定できないなと、思ったりする。

卵には生命の象徴のような感じがあるが、一般的にスーパーて売られている卵は無精卵なので、生命自体は内包しない。だがやはり生命の気配は存在するような気がする。たとえ、十個パックの中に入れられた卵であったとしても、それが生身の鶏から産まれている以上、命の気配は存在するのだ。

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