川本 千栄『樹雨降る』(ながらみ書房 2015年)
夏休みの宿題の定番、絵日記。本当は毎日書かなければならなかったのに溜めてしまい、夏休み最終日にまとめて書いた記憶がある。書くことがあまりにもなくて、その種を得るためにどこかに連れ出してもらったこともある。
この歌では、絵日記に「兎」が登場する。家で飼っているというよりは、どこかに出掛けたときに撫でる機会があったのか。
右手だけがぐうんと長い絵。手を伸ばし、兎を撫でている。
構図をしっかりと決めて、兎を撫でさせたのではなさそうだ。初めは撫でるつもりではなかった。だが、描いているうちに撫でさせたくなったのか、撫でたことを思い出したのか。
それとも、逆に、撫でたことが鮮烈に印象に残っていて、むしろ、ここが絵として強調されたのだろうか。
言わずもがな、絵には心理が映る。幼ければなおさら、よりわかりやすいかたちで、それは表れるだろう。
小動物。自分がいたわるもの。撫でたかったもの。撫でたもの。
端的に、その心のベクトルが、また、からだの印象の強さが、絵となった。
俯瞰的で客観的な位置関係の把握がなされるのはもう少し後なのだろう。まだその発達段階には至っていない。
それは、大人から見れば、はっとする、一途な偏り方で。
「ぐうんと」は朗らかなオノマトペ。愛嬌を含みつつ歌を伸び伸びとさせている。また、二句目にあって、何のことだろうと興味を引く効果を持っている。
ただ、「右手だけ」の「だけ」に戻れば、やはり、アンバランスゆえのほの暗さ、寂しさは拭いきれない。
成長の過程は、直線的ではなくて、あちらに寄ったり、こちらに傾いたり。そのいびつさは楽しくもあり、時に、痛ましくもあるのだろう。
ここでの「子」は子の自画像。描かれた自分でもあり、描いた自分でもある。
いずれ消えてしまうアンバランスさ。ひとときの不格好さ。
貴重な季節が、「撫でいる」絵の中で、永遠にとどめられた。