塩谷風月『月は見ている』喜怒哀楽書房,2020年
母の行動に対するツッコミが出かかるのだけど、そのツッコミを無効化する力が一首にはあるような気がする。
電子レンジで温めるという行動から、コンビニで売っているようなプラスチック容器に入った冷麺をイメージする。もちろん、それは普通は温めないものだ。ただ、温めるという行為をするのが母だと言われると、途端に納得してしまう。「チン」という電子レンジで加熱する表現も相まって、ある程度の年齢の母を想像する。
上句は母の行動パターンを描く。母はどんなものでもチンをするのだという。「どんなものでも」という表現によってハードルが設けられるのだけど、「冷麺」の登場でそのハードルはさらっと飛び越えられる。
冷麺のアイデンティティはどこにあるのだろう。冷たい麺のはずなのに、主体の目の前にあるそれは温かい。アイデンティティクライシスに陥っている冷麺に対して、「これは冷麺」だと断定する。主体はこの状況を受け入れている。ツッコむ余地は無い。主体はおそらく、温かい冷麺をこれから食べる。(冷麺のつゆは開けて温めたのか、薬味は温めたのか…細かいことが気になってしまう)
一首は、冷麺を電子レンジで温める様子を描写してはいない。前述のとおり、上句に書かれているのは母の行動パターンである。一般論であり、個別具体の描写ではない。下句では、温かい冷麺の存在が提示される。「これは」とあるので、主体のすぐ近い場所に温かい冷麺は存在するのだろう。具体的に描かれているのは、主体の眼前に温かい冷麺があるということだけだ。面白い構成だと思う。
おそらく、眼前に温かい冷麺がまずあって、主体はそれを母がレンジで温めたことを悟る。なぜなら、母は「どんなものでもチンをする」からだ。(冷麺もかぁ)というような主体のつぶやきが聞こえてきそうではあるが、ここには一回性の驚きは必ずしもない。母は様々な物を電子レンジで温める。それがたまたま、今回は冷麺だったというだけだ。
主体にとって、母の一側面を切り取ると、それは「どんなものでもチンをする」となる。母の描写として、面白く、そしてなんとなく母のイメージも立ってくる。なによりも、主体の「母」への理解の上に一首は成り立っているように思うのだ。
つばくろのよぎる季節となりにけり産まれるための卵、巣にあり/塩谷風月『月は見ている』