この夏に失ったもの 手洗いの藍の服から藍が流れる

岡本 幸緒『ちいさな襟』(青磁社  2020年)

 

 この夏、何かを失った。例えば大切なものが壊れたとか、誰かと別れたとか。

 いや、そういう明確な出来事がなかったにせよ、夏の終わりには何となく喪失感が漂う。輝きの季節は終わり、これからは翳りゆく季節。日脚も日に日に短くなり、盛りを過ぎたことがひしひしと感じられてくる。「この夏に失ったもの」は、だから、実感としてとてもよくわかる表現だ。今はそれを、ぼんやりと思い返しているのかもしれないし、逆に、何を失ったのだろうと考えているところかもしれない。

 

 そのような場面に取り合わされるものとして、下句では「藍」が登場する。藍の色は爽やかで夏らしい。浴衣の色の定番でもある。

 藍染の布は色止めをしていたとしても色落ちしやすいので、他の物と一緒には洗えない。衣服にも注意書きでそのことが示してある。だから、別にして手洗いをする。すると、濯ぎの水に藍色が混じるのだ。手洗いをしているので、その水の色の変化がなおさらわかる。

 

 溶けていくこと、失われていくこと。それはなかなかにいたわしくわびしいものである。そして、夏の終わりの気分に合ってくる。

 激しく失われているわけではない、薄まってはいるのだ。だからこそ、流れてゆくものは、遠い思い出のようであり、そこはかとない憂いのようである。

 とどめようもない季節、とどめようもないこと。うす青色の不可逆の流れの中を行くしかなくて。

 

 それゆえに、このままに置いてはおけない。ますます色が落ちてしまうから。この後、濯ぎきって、干す。そして、夏を仕舞うのだ。

 

 この服を水にくぐらすのは、この夏、最後だろう。

 いろいろなものを思いながら洗う。それはおのずと、次の季節への準備にもなっていて。

 

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