花束はピアノの上に置かれたりアンコールへと入りゆく静寂しじま

飯沼鮎子『プラスチックスクール』短歌新聞社,1994年

予定されていたコンサートのプログラムが終了して、万雷の拍手の中、花束の贈呈が行われる。ピアノのソロコンサートか、合唱や独唱のようなものの伴奏かはわからない。ピアニストはお辞儀をして舞台袖に一度戻るが、拍手は鳴り止まない。そして、ピアニストは舞台袖から再度登場して、アンコールの演奏がはじまる。手に持っていた花束はピアノの上に置かれる。
ささやかな場面が描かれていて、その情景はクリアに像を結ぶ。

上句はピアニストの動作が、下句は会場の状況が描写される。結句が体言止めになっていて助詞が付されていないので、上句から下句に時間が経過するのか、上句と下句が同じ時間の描写なのか少し悩むのだけど、後者でとって静寂のなかで花束を置かれた状況を想起した。花束を置くタイミングにもよるが、拍手が途切れたタイミングであれば、ふぁさっという微かな音が会場に響く。ささやかであまり記憶には残らないけれど、印象的な一場面だ。

コンサートの趣旨にもよるだろうが、本プログラムの空気とアンコールの空気はいくばくか異なる。緊張感のあった本編とは異なり、多少は緩やかな空気が流れる。その空気には、時として祝祭感のようなものも感じられるような気がするのだけど、それはピアノの上に置かれた花束の印象もあるのかもしれない。
言語化されることなあまり無い時間が、言葉によって切り取られて心地よい。なによりもその瞬間を私が詠んでみたかったなと思ってしまう。

すれ違いの日々にも馴れて除湿機の水落つる音深夜ひびけり/飯沼鮎子『プラスチックスクール』
ジャンプして若葉を掴む少年らたちまち過ぎぬ声を残して
少年の若葉のごとき息充ちて教室は夏の森となりゆく
夕焼けは叫んでいるがビル街も人波も振り向こうとしない

明瞭に意味のある音よりも、記憶にも残らないような音が詠み込まれた歌の方が記憶に残るような気がする。時にそれは音ですらない。一首の歌として提示されるとき、〈慣れて〉ではなく「馴れて」、〈満ちて〉ではなく「充ちて」が選ばれていて、そんな表記の工夫が一首を下支えする。

その歌を読まなければ言語化されることが無かった場面に出会うと、短歌を読むのは楽しいとあらためて思う。

生きよとの声もあるべし魂にパラソルさして歩みゆく午後/飯沼鮎子『プラスチックスクール』

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