裏庭に金管楽器さびてゆく海はひかりを招きつづける

東 直子『青卵』(本阿弥書店  2001年)

 

 たとえば、トランペット、トロンボーン、チューバ、ユーフォニウム  もう使われない金管楽器が裏庭に置かれている。

 「裏庭」とはどこの裏だろう。家の裏であれば、一個の楽器。学生時代、吹奏楽部に入って一生懸命練習したけれど、今は全く吹いていないし、もう使うことはないから。そんなストーリーが浮かぶ。あるいは、家族の物。家を出て、もうここで暮らすことのない家族の物。

 学校やホールなどの施設の裏であれば、複数の楽器だろう。新しい物への切り替えにより、以前の楽器は廃棄となった。改修のために、古い物を整理している最中かもしれない。

 

 いずれ、どの楽器もかつてはきらめいていた。真鍮そのもののひかりに加え、息を吹き込まれ良い音を響かせ楽器としての命を生きている輝き、グリースで手入れされ艶やかに使い込まれてゆく輝き、舞台上のライトの非日常の輝きなどによって、そのひかりは、深み、厚みを増していっていたはずだ。

 だのに、吹かれなくなり、触れられなくなり、輝きは弱まり、錆まで生じている。緑青、赤錆……潮風の作用もあるだろうか。

 

 その一方で、下句では海がひかりを招きつづけている。「さび」と「ひかり」  この対比構造に何か救われる。

 上下は必ずしも関わらせて読まなくていいが、関わらせて読むとすれば、失われてゆく金管楽器の輝きを、きちんと海が受け取ってくれているのだ。それは海の絶対的な大きさ、度量の広さを表すと同時に、光ってやまない波の美しさの訳も示している。

 「招く」という動詞の選びが秀逸だ。おいでおいでと、優しく大らかに呼びかけてくれるのだ。かすかなひかりへも、消えゆくひかりへも。

 そして、「ゆく」と「つづける」の現在進行形の呼応にも注目する。楽器がひかりを失いきるまでには、まだ時がある。その間、海はずっとひかりを招きつづけるのだろう。波が打ち寄せるように、繰り返し、何度も何度も呼んでくれるのだろう。何年も何十年も。海がそうするというなら、きっとそうなのだ。

 

 ここには人間が出てこない。人間は要らない。モノと自然の交感。しずかな。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です