駅から五分の町にわが住みまだ知らぬ六分の町七分の町

藤島 秀憲『ミステリー』(短歌研究社  2019年)

 

 「駅から五分の町」とは、とても便利なところにお住まいだ。いつもこの駅を起点として、どこかへ出掛けていくのだろう。

 JR、私鉄、地下鉄、第三セクター鉄道……乗り継いでいけば、いろんなところへ行ける。遠くにも行ける。鉄道からバスに乗り換えて山頂付近まで登ったり、飛行機やフェリーに搭乗し海外に行ったりすることもできる。

 最寄りの駅を要とした扇状に、行動範囲はぐんと広がっていく。駅とはそういう所である。

 そうして、主体は、そんな駅とそこから五分のところにある自分の住まいとを行ったり来たりしている。時々は、間にあるだろうコンビニに寄るなどしながら、行ったり来たりする。ごくたまには、いつものルートとは違う道を通ってみるかもしれない。今日は、日陰の多い右の道を行こうとか、一本早く曲がってよそのお宅の楓の木を見てみようとか。そうすると、少し遠回りになるかもしれないが、でも、それはあくまでも、駅から五分プラスアルファの範囲の中の行動である。「駅から五分の家」ではなく、「駅から五分の町」。膨らみを持ちつつ、その界隈を行ったり来たりしているのだ。

 

 だが、ふと、気付く。いつも駅の方を向いて、駅の方を意識して暮らしているけれど、そういえば、駅とは反対側にも町があるのだということを。

 つまりは、自宅の裏側、ということになろうか。

 駅から「六分の町七分の町」ということは、自分の住まいからすれば、「一分の町二分の町」ということになる。なのに、行ってみたことがなかった。すぐ行けるのに。なんなら、今からでもすぐ行けるのに。

 人の行動パターンというのは面白い。生活圏とは言いながら、案外、ごく限定された中で暮らしている。それは、意識の向け方ということである。意識を向けなければ、どんなに身近なものであっても、その存在に気付かない。

 

 カラーバス効果というものがあるそうだ。その日、たとえば、赤がラッキーカラーだと言われると、やたらに赤が目に留まるという、情報の選択についての現象である。

 つまり、人間は、見たいものだけに目を向けているようだ。そして、そうでないところは意識しない。モノの存在や、人の心でも。それは、町においてもそうだ。

 

 が、ここで、初めて意識されたのだ、ある町々が。

 その時、「六分の町七分の町」は可能性である。冒険の予感を孕んだ、未踏の地である。また、「六分の町七分の町」という言い方、魅力的だ。「一丁目」や「新町」などとも違う、より得体の知れない感じ、土地としてのイメージが結べない感じがする。その時間の分だけ歩めば着く、進めば着く、それだけがわかっている町……。

 

 しかし、では出掛けるのか、すぐにでもと考えてみて、すっきりと頷けない。

 どうだろう。「まだ知らぬ」あたりに、かすかに怖じ気づく感じはないだろうか。

 行くか行かないか……まさに五分五分の感じがする。

 

 もし、ためらいがあるとしても、それはそれ、死角は死角のまま、謎を残しながら暮らすのもいいものかもしれない。

 思うだけの町。そういう町を持ちながら生きるのも。

 

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