ブロイラーをレグホンの卵でとじたもの同僚一○人一斉に食む

大井学『サンクチュアリ』KADOKAWA,2016年

一読して身も蓋もないなと思うのだけど、その身も蓋も無さみたいなものが一首の魅力だと思う。

ブロイラーは食肉用に品種改良された鶏の品種。レグホンはおそらく白色レグホンを指し、採卵用の鶏として世界的に普及している品種のことだろう。

おそらく、同僚は親子丼を食べている。そもそも親子丼の鶏肉と卵は実の親子ではなくて見立てに過ぎないのだけど、品種名が提示されることで、親と子の距離は相当に離れる。品種が違うということももちろんあるが、食肉用・採卵用にそれぞれが品種改良されたブロイラーとレグホンは、人間に肉と卵をもたらすために存在しており、親子という概念とは距離がある。親子丼自体がそれなりにグロテスクな名称で、鶏も卵も生命であることを微妙に隠した上に成り立つ料理名だけれど、品種名が提示されることで逆に異様な角度で生命が感じられて、親子丼という名称がより奇怪なものに思えてくる。

ブロイラーの肉をレグホンの卵でとじた親子丼は日本の平均的な親子丼だろうが、こうやって表現されるとまったく美味しそうに感じない。〈さつま地鶏を名古屋コーチンの卵でとじたもの〉であればむしろ美味しそうに感じられるので、品種名それ自体が悪いわけではなく、「ブロイラー」や「レグホン」という名詞が食欲を削ぐのであろう。食用に特化されて改良に改良を重ねられたそれらは、どこか工業製品のようなイメージだ。

8月29日の日々のクオリアで紹介した「しっかりと命の気配を消しておくランチに添える固茹で卵」(奥村知世『工場』)は、食材が本来は命あるものであることに直接焦点を当てているが、掲出歌は現代人が食べるものが持つある種の不自然さに焦点を当てている。それは、岡野大嗣の「骨なしのチキンに骨が残っててそれを混入事象と呼ぶ日」(『サイレンと犀』)などと同様に、起きている事象としてはまさにその言葉通りなのだけど、一首の歌として提示されるとどこかいびつで不自然な印象が生まれる。

十人の同僚が一斉に親子丼を食べる。なか卯のような親子丼を出すチェーン店の可能性もあるが、まず想起するのは社員食堂のような場所だろう。社員が机を囲み同じものを食っている。狭い場所で育ち肉として出荷されるブロイラーや、ゲージの中で採卵をされ続けるレグホンと、サラリーマンが重なる。朝早く起き、ぎゅうぎゅう詰めの電車で通勤し、ストレスフルな労働をし、夜遅く帰宅する。「ブロイラー」や「レグホン」に感じる不自然さを、ある意味ではサラリーマンも内包しているような気がするが、そうは言ってもサラリーマンから降りることはなかなか難しい。

ブロイラーを食い、レグホンが産んだ卵を食う。照り焼きチキンや親子丼、半熟煮卵といった料理名が覆っているものを剥ぎ取ると、そこには荒涼とした世界が広がっている。荒涼とした世界にはなかなか耐えれないから、親子丼という名前が必要になるのかもしれない。

めだま焼き片目ながれて涙目の朝には軽い出社拒否症/大井学『サンクチュアリ』

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