日高 堯子『樹雨』(北冬舎 2003年)
「くぼみ」とは、何のくぼみだろう。
結句にあるとおり、「身体」のくぼみだろうか。
もちろん、上句下句は「べし」で切れているので、関わらせて読まなくてもいい。上句の「くぼみ」を、食器のくぼみや、料理のくぼみと取ることもできる。
が、助動詞「べし」 「のせるべきだ」、「のせるのがよい」、「のせなければならない」の「べし」 の強さと、そこから続く「ああ」の感嘆を思うとき、やはり、上下は連動している、このくぼみは「秋の身体」のくぼみだと感じられるのだ。
身体にはくぼみがたくさんある。へそのあたりもくぼんでいるし、目の周りもそうである。手のひらをくぼませたっていい。人体は起伏だらけだ。出っ張っているところがあれば、引っ込んでいるところもあるわけで、それは体型の変化や、手術などによっても生じるものだろう。そんなくぼみに卵を置く 。
実際にのせるわけではないだろう。(もちろん、のせたっていいが。)
しかし、のせると想像したときに、何かとても、身体のくぼみと白い卵とが合うように思われたのだ。
私たちは自分の身体から逃れることができない。身体によって様々に動けるのが嬉しい反面、身体があるゆえに悩むこともある。誰しもが身体に、ほの暗い部分を抱えている。ほの暗いところ くぼみ。そこにのる時、「白き卵」は恩寵のようではないか。「べし」の格調高い響きに基づきながら、身体についての何かが許されるような、大丈夫だよと認められるような。卵はやはり、命そのものであるし、「たま」は魂であるから。硬質ながら、温もりがある。エロスのかすかな熱も。
この時、「やはらかき」は、余裕ある、受容の身体というものを表していよう。
今年などはなおさらそうだが、暑くて暑くてしょうがなかった夏から、少し落ち着いて、自分の身体を取り戻す季節が「秋」なのだ。白秋 秋の色、白も歌に入れ込まれている。「秋の身体」の豊かさをしみじみと感じていきたいものだ。
もう一つ。「やはらかき」について。これを、身体の柔軟性と取るならば、たとえば、ビールマンスピンのポーズ。スケートの浅田真央選手が得意とした、片脚を後ろから頭上に高く伸ばし、その脚を両手で掴むポーズである。それをすると、背から腰にかけての部分がへこむ。くぼみができる。そこに、卵をのせたらどうだろうか。
のせてみたいなあ、と思ったのだ。誰かの身体の柔らかさを見て、あそこに卵をのせてみたいと思ったのだ。卵の割れやすさゆえの危うさもいいスパイスで。
そんな遊び心の歌だと考えても嬉しい。