一斉にマロン関連商品の出回りてひとの死にやすき秋

染野太朗『あの日の海』本阿弥書店,2011年

お盆が終わって八月も下旬になると、お菓子売り場に秋の限定商品があらわれる。AEONのような大型スーパーであれば、特設の売り場が設けられ、見知った定番商品のパッケージが黄色や茶色、紫色なんかに塗り替えられ、栗や芋味の商品が鎮座する。

「一斉に」とあるので、掲出歌はマロン関連商品が出回るタイミング、夏から秋に季節が切り替わる時期のことだろう。生命感溢れる夏から枯淡の秋に季節は移り変わる。お菓子売り場には秋らしい色の新商品が増えて、秋の到来を感じさせる。

ただ、そんなお菓子群に秋の到来は感じるものの、いくばくか不思議な印象は残る。栗の旬は九月から十月だが、それに先立って栗味のお菓子は出回る。もちろん、それは企業の販売戦略なのだけど、私たちが季節の物だと思っている栗の加工品っぽいものが、栗のはしりの時期に、一斉に並ぶのはどこか奇妙で、少しだけ倒錯しているような気がする。〈栗のお菓子〉や〈栗味のもの〉よりも、〈マロン関連商品〉の方が栗そのものから距離があって、工業製品という感じがする。「マロン」、「関連」、「商品」と繰り返される〈ん〉の音もどこか作為的で、その印象を強める。

人が死にやすいとはどういうことだろう。月別の死亡統計ではどちらかと言えば死亡者数は冬場の方が多い。一般論というよりは、主体の実感あるいは詩的連想なのだろうか。あるいは、著名人の死亡ニュースが続いたとか、知っている人の死が重なったとか、夏休み明けに自死が増えるとか、一首が詠まれた秋のはじめに死の印象があったのかもしれない。初句「一斉に」は「マロン関連商品の出回りて」にかかるのだけれど、下句の死にも影響を及ぼしていて、複数の人が亡くなってかのような印象をかすかに受ける。

季節は巡り、秋は毎年やってくる。一首は栗そのものではなく「マロン関連商品」を季節の象徴として選ぶことで、どことなく自然から距離が取られる。その距離は下句の「死」と響き合う。下句の「死」は、大往生の自然死というよりは、もう少し非業の死に近いものが想起される。

栗味のお菓子を手に取る時、この歌が思い出されて、あぁ生きているなと思ってしまう。

秋晴れの来宮神社の大楠の時間といふをぼくは見上げつ/染野太朗『初恋』

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