網戸にはときおり欅の影ゆれて目詰まりしやすい光があった

永田 紅 『いま二センチ』(砂子屋書房  2023年)

 

 「網戸」が普及したのは昭和の後半。雨戸を立てていた時代から、アルミサッシの掃き出し窓の時代になり、そこに嵌め込まれるようになった。夏の夕方、蚊取線香を焚いて虫を追い出し、網戸にする。それで暑さをしのいだのだったが、例えば今年の夏などは暑すぎてエアコン頼み。網戸を活用しづらくなってきた。夜になっても、屋外から来るのは熱風であるし……。だからだろうか、「網戸」からは、かすかにレトロな風情が漂ってくる。結句「あった」の過去形の影響もあるだろう。

 

 「欅」は落葉広葉樹。一年中楽しませてくれる木だ。春先に美しい新芽を出し、夏は緑陰をつくり、秋は葉の色を黄や茶に変え、冬には葉を落とす。庭に生えているお宅もあるだろうが、二十メートルを超すものもざらなので、公園や街路脇、公共の施設の敷地内に植えられていることが多い。すると、歌の舞台はどこだろう。自宅かもしれないし、学校や職場、病院、いろいろな場合が考えられる。

 

 網戸に映る欅の影が「ときおり~ゆれて」とあるので、ある程度の時間、網戸の方に意識を向けていたようだ。

 そして、網戸には「目詰まりしやすい光」が  ここが歌の見どころである。

 光は目詰まりしない。目詰まりというのは、それなりに大きな形のものが引っかかることであるから。光が物質なのかどうか専門的なことはわからないが、だとしても粒はとてもとても小さいので詰まることはない。けれども、見えたのだ。一つ一つの網目の中に、光が溜まっているように。ここから光の質感が分かってくる。まぶしくあふれるような、かすかな粘性をもつような、存在感のある光。

 つまり、観察の目と感覚的な捉えと、この両方が生んだ表現が「目詰まりしやすい光」なのだ。

 

 そして、そう捉えさせている大本は主体の心である。風のあまりない晴れた日の、静かな時間。暗い室内から見る明るい屋外。影と光、光と影。これから人生が大きく動いていくかもしれないけれど、今は、ここに。静かにぼんやりとここにいるのだ。

 この瞬間、世界の全ては網戸越しである。そして、自分は眺める人。何を眺めているか。この今を。時を。人生の時間を見ている。

 

 こういうひととき、確かにあったような気がする。

 ただ一人が見た光景であるはずなのに、懐かしいのはなぜだろう。

 

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