右からも左からも愛されていて肩をすぼめる九月の寝床

/御糸さち『ねこのね、』私家版,2020年

我が子に挟まれた状態で眠っている、そんな状況を想像する。「右からも左からも愛されていて」という把握が面白く、子がぎゅうっと主体の方に寄ってきている感じがする。時期は九月、まだ暑い夜もあるだろう。「肩をすぼめる」という表現からは、主体がその「愛」に耽溺していない印象を受ける。それでも、やはりそこには「愛」があると主体は感じているのだ。

『ねこのね、』には日常の一場面を切り取った歌が多く収録されている。なんでもない日常の場面なのだけど、切り取り方が時にあまりにも鮮やかで、楽しみながら一首を読む。

「あひるの、あ」「いぬの、い」かなの練習をする子は告げる白熊の死を/御糸さち『ねこのね、』
同じ火の熱量を分け合いながらかたまる玉子とろけるチーズ
俺むかしワルだったんだよね、的な名の荒川を歩いて越える
歌人とは悲しいときに悲しいと言えば添削されるいきもの

「しろくまの、し」は平仮名のテキストそのままなのだろうけど、白熊の死として認識する一首目。上句からの流れが完璧に決まっている。チーズ入りのオムレツなり、卵焼きなりを作る際の卵とチーズの変化の違いを提示する二首目。「同じ火の熱量」が変化の原因であるという当たり前の把握をあらためて言語化したことで、下句で提示された差異がより一層鮮明に感じられる。元不良自慢をするおじさんで荒川を喩える三首目。「歩いて越える」という動作が描かれることで、荒川の今昔がより一層鮮明になる。生活詠ではないが、作歌上の助言について詠んだ四首目。確かに、悲しいや嬉しいのような直接的な感情表現は戒められることが多い。作歌上の助言であるという状況設定を省き、歌人を「いきもの」と抽象度を上げて提示することで、一首には作歌という営みの不思議さが滲む。いずれの歌も、起点にある発想がまずもっておもしろく、その発想が一首の短歌として巧みに作り上げられている。

集中にはもう少し直接的に非凡な発想が提示された歌も収録されている。「大型で強い台風が来るぞって小型で弱いアナウンサーが」の台風とアナウンサーを対比する発想は斬新で、「渡辺や佐藤や鈴木なんだろうおすもうさんよ君たちの名は」で想像される力士の本名は妙にリアルだ。

一首の歌を成す時に非凡な発想は強い武器だ。それによって、平凡な日常は時に輝き、時に異世界として提示される。そこで描き出される世界は面白く、その根源にある発想はまばゆい。

各々が前と信じている方へ子供三人散る散る生きる/御糸さち『ねこのね、』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です